河地修ホームページ Kawaji Osamu
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王朝文学文化研究会 


文学文化舎



-伊勢物語論のための草稿的ノート-

第90回
「賀陽(かや)の親王」が寵愛する「女」(43段)

 

「色好み」の女に翻弄される「男」

42段と同様に「色好み」の女をめぐる話である。テーマとしては前段に連続していて、「色好み」の女には当然多くの男が言い寄ってくるので、「男」の側からすると不安でならない、というエピソードである。本文を掲げる。

昔、賀陽(かや)の親王(みこ)と申す親王おはしましけり。その親王、女をおぼしめして、いとかしこう恵み使うたまひけるを、人なまめきてありけるを、われのみと思ひけるをまた人聞きつけて、文やる。ほととぎすの形(かた)を書きて、

ほととぎす汝が鳴く里のあまたあればなほうとまれぬ思ふものから

と言へり。この女、けしきをとりて、

名のみ立つしでの田長(たをさ)は今朝ぞ鳴くいほりあまたとうとまれぬれば

時は五月になむありける。男、返し、

いほり多きしでの田長はなほ頼むわが住む里に声し絶えずは

(昔、賀陽親王と申す親王がおいでであった。その親王は、女をご寵愛なされて、それはたいそう目をかけて召し使っておいでであったが、その女にある男が言い寄ったので、女に言い寄るのは自分だけだと思っていた別の男がそのことを聞きつけて、手紙を贈る。それにはほととぎすの絵をかいて、歌がある、

ほととぎすよ、お前が鳴く里が多くあるので―お前が多くの男と付き合いをしているというので、やはりお前が疎まれてしまうことだ、お前のことを愛してはいるものの

と言ったのだった。この女は、男のご機嫌を取って、

浮き名ばかりが立っているほととぎすは今朝も鳴いています―そのほととぎすと同じで私は今朝も泣いているのですよ、多くの人とお付き合いをするからと、あなたに嫌われてしまったものですから

時節は五月なのであった。男が、返歌を詠み送った、

多くの場所で鳴くほととぎすのように、多くの男と付き合いをすると言われるお前ではあるが、やはり、私は頼みとすることよ、私の住む里に来て鳴いてくれさえすれば―私と付き合いを続けてくれさえすれば)

「色好みの女」は、いつの時代でも「男」の心をやきもきさせるものである。男からすれば、自分一人だけに心を向けてほしいのだが、魅力的、かつ社交的な女の場合は、結果的に多くの男が言い寄るのである。人から求愛されて(好意を持たれて)不愉快な人間はいないから、まあ、多くの男と交際するということになろう。「男」からすれば、そのことが気掛かりであると同時に、大いに不満ということにもなってくるので、女は女で、男のそういう不満を上手に解消してやらねばならないのである。まさに『古今和歌集』「序」に言うところの「色好みの家」における一風景に他ならない。

 

昔、賀陽の親王と申す親王おはしましけり

ところで、この43段の冒頭の一文「昔、賀陽の親王と申す親王おはしましけり」は、いわゆる実名章段と称される章段の冒頭である。この章段の近くにある第39段も、冒頭が「昔、西院の帝と申す帝おはしましけり」となっており、この43段と同じスタイルであることがわかる。この両章段に共通することは、実名として表記される「西院の帝」(淳和天皇)も「賀陽の親王」も、章段の話の中身にはほとんど無関係であるということである。そういう意味では、これらの実名をわざわざ冒頭に掲げる目的は、その実名による時代設定ということになるであろう。

43段の「賀陽親王」とは、桓武天皇の第七皇子で、延暦13年(794)に生まれ、貞観13年(871)に、78歳で薨去している。まさに平安時代初頭に生まれ、その後78年の生涯を送ったことになるが、そういう意味では、『古今和歌集』「仮名序」が言うところの「今の世の中」を生きた人物と言っていい。

「仮名序」は、この時代について「今の世の中、色につき、人の心花になりにけるより、あだなる歌、はかなき言のみ出でくれば、色好みの家に埋もれ木の人知れぬこととなりて」(新しい時代となって、世の中が華美を求めるようになり、人の心も浮薄になってしまい、和歌も実のない、表面的なものばかりになって、色好みの間に埋もれて、一般には人に知られぬものとなった)と言っている。つまり、和歌は、男女間でのやり取りの道具に過ぎなくなったのだ、と言っているのである。この43段に描かれる男女の歌のやり取りこそ、その典型と言っていいだろう。

そして、賀陽親王その人について考えてみると、桓武天皇の第七皇子ということからもわかるように、親王宣下を経たとはいえ、すでに皇統からは外れていた親王であった。だからというわけではあるまいが、近くにいた女(女房であろう)を「いとかしこう恵み使うたまひける」と、私的な寵愛にも及んだのであろう。また、この賀陽親王は、細工の名人としての逸話が残されているが、こういうところに力量を発揮できるほど、親王は、別の見方からすれば、政治の世界に重きを為す人物ではなかった。

この43段については、『古今和歌集』の「古」の和歌の時代(9世紀前半)を担った「色好みの家」の「男と女」のエピソードと見ておもしろいが、同時に、こういう世界は、当時の貴族社会の政治的中枢からは離れたところに存在したということを確認しておきたい。

 

2021.5.9 河地修

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