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王朝文学文化研究会 


文学文化舎



-伊勢物語論のための草稿的ノート-

第91回
「あがたへ行く人」(44段)(一)

 

「あがた」と「馬のはなむけ」

44段は、解釈が難解なことで知られるが、ここでは「あがたへ行く人に馬のはなむけ」をする、という表現に注目してみたい。本文を掲げる。

昔、あがたへ行く人に、馬のはなむけせむとて、呼びて、うとき人にしあらざりければ、家刀自(いへとうじ)、盃ささせて、女の装束かづけむとす。あるじの男、歌よみて、裳の腰にゆひつけさす。

いでて行く君がためにとぬぎつればわれさへもなくなりぬべきかな

この歌は、あるが中におもしろければ、心とどめて詠まず、腹にあじはひて。

(昔、地方の任国へ行く人に、餞別の宴をしようということで、その人を呼んで、遠慮するような間柄の人ではなかったので、家刀自が、酒を注がせて、女の装束の裳を禄として与えようとする。家の主人である男が、歌を詠んで、その歌を裳の腰の紐に結い着けさせる。

都を出てゆくあなたのためにとこの裳を脱いだので、自分までも裳―喪がなくなってしまうに違いないことよ

この歌は、その時に詠まれた歌の中でも特に興味深いので、腐心して朗詠はせず、じっくりと心のなかで味わうがよい。)

この44段は、地方の任国へと旅立つ人を餞別(送別)する時の出来事である。ここでは、その地方の任国のことを「あがた」と言っている。言葉として特に問題があるということではないが、この「あがた」という言葉はもともと古い。

『国史大辞典』は、「県は、倭朝廷が設定した地方行政制度の単位、」とし、また、『日本国語大辞典』でも、「大化前代の地方行政単位。国造(くにのみやつこ)の国制に先行して、畿内や西日本、大和政権の料地に施行された。後には国の下級組織となる」と解説している。

このように、言葉としての「あがた」は、古代前期に成立していた大和言葉と言っていい。古代後期(平安時代)では、おおまかに「地方。田舎。国。」ということで使用されるが、中古の仮名文献では、目にすることはあまり多くないように思われる。たとえば、「地方」を言う時には、「人の国」、もしくは「ゐなか」などと表現することが普通である。

しかし、この「あがた」という言葉は、当時の受領層においては、実際の生活ではよく使われていたものであろう。『土佐日記』は、紀貫之が、任国の土佐から京に帰るまでの記録だが、その冒頭近くに、次のような一文がある。

あるひと、あがたのよとせいつとせはてて、れいのことどもみなしをへて、げゆなどとりて、すむたちよりいでて、ふねにのるべきところへわたる。

(ある人が、地方官としての4年から5年の任期が終了し、新旧引継ぎの事務もみな終わり、解由状も受領して、官舎を出て船着き場に渡る。)

あらためて言うまでもないが、貫之は「受領層」である。受領層の貴族階層は、当時「中の品」(なかのしな)と呼ばれたが、そういう階層に生まれ、そこに生きた人物には、たとえば、毎年正月に行われる「あがためしの除目」などには、敏感にならざるを得なかったであろう。「あがたへ行く」という表現は、まさに、受領層に身を置く人々であるからこそごく自然に表出される語句であったに違いない。

また、「馬のはなむけ」という言葉も、「あがたへ行く」と同じ性質を有する語である。「あがた」へ行く人も、「あがた」から帰京する人も、当然のことだが、そこでは「送別」のことが行われた。これを「馬のはなむけ」と表現したのである。

この語も、その語源は特殊であるにしても、受領層の人々にとっては、ごく自然に発出される言葉であった。だから、『土佐日記』においても、「ふなぢなれどうまのはなむけす」(船の旅なのに、馬のはなむけをする)というダジャレと言うような表現が成立したのである。

この44段は、和歌と最後の一文の解釈に、古くから諸説が多数存在してその結論を得ることがなかなか難しい。ただ、この章段にある話が、受領層の世界ではごく普通に見られるエピソードであって、9世紀の和歌を支えた有力な担い手として、こういった「受領層」に身を置く人たちがいたことを認めておきたい。

 

―この稿続く―

 

2021.6.12 河地修

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