源氏物語小屏風絵‐胡蝶‐

上:『源氏物語』の「胡蝶」巻で、紫の上は、秋好む中宮の「季の御読経」の催事に際して供華を行ったが、その時の使者として遣わされたのが、「迦陵頻」と「胡蝶」を舞う童子たちであった。庭の舞を見る画面奥の秋好む中宮と光源氏、春爛漫の六条院、西南の町である。

源氏物語小屏風絵-胡蝶-
(個人蔵、江戸初期)

下:「龍頭鷁首を、唐のよそひに、ことことしうしつらひて、楫取の棹さす童べ、皆みづら結ひて、唐土だたせて、さる大きなる池のなかにさし出でたれば、まことの見知らぬ国に来たらむここちして」―『源氏物語』「胡蝶」巻より

源氏物語小屏風絵‐胡蝶‐
部会報告
平成22年1月20日 第19回 水曜部会

【報告】

1月20日、本日は今年度最後の水曜部会でした。
発表者は私増田1名、参加者は全部で9名、担当箇所は28頁10行目~29頁8行目「命婦の復命と帝の新たな悲しみ」の最後の部分でした。

更衣を失ったあまり政務を怠るどころか、食事にまでろくに手をつけなくなってしまった帝の様子と、そんな帝の様子に嘆くまわりの人々の様子を描いた場面です。 長恨歌が多数引用されており、紫式部の教養の深さが垣間見えるようでした。

「政務も手につかないような状況にあって譲位は考えなかったのだろうか」という質問があり、このとき東宮はいたのかどうかという問題を考えました。 のちの記述や秋好中宮の年齢設定を見るとこのとき前坊(六条御息所の亡夫)は存命だったのではないかとも考えられますが、桐壺帝がところどころで光君を東宮になどとほのめかす場面もみられますので前坊はすでに亡くなっていたのではないかと考えるのがよい、ということに落ち着きました。 こういう齟齬は源氏物語自体が老女房の昔語りであり、それぞれ違う女房達が回想し語っているものなので生じてしまったのであるというのが一番納得できる説ですが、紫式部自身がそこまで綿密に考えずに書き綴っていったのではないか、という説もありました。 一体前坊はいつ亡くなったのか、作中書かれていない部分がとても気になりました。

次回発表は4月21日、「若宮参内、祖母北の方の死」からです。 私はきっと参加することは出来ないので部会報告を楽しみに待ちたいと思います。

学部4年 増田雪乃


※資料(アクセスキーを入力してください)
  「桐壺」28p L.10~29p L.8