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王朝文学文化研究会 


文学文化舎



-伊勢物語論のための草稿的ノート-

第107回
昔の人の袖の香(60段)(二)―『古今和歌集』の存在と『伊勢物語』

 

「物語化」という考え方は正しいのか

この稿の筆者も含めて、ということになるが、『伊勢物語』について「物語化」という概念・語句を用いて解説することが多い。『伊勢物語』は、言うまでもなく、「物語」なのだから、作者が制作したもの、つまり「物語化」という言い方はおかしいことではない。

たとえば、第2段の場合、「昔、男」の詠じた歌は、『古今和歌集』「巻十三」「恋三」の巻頭にある「在原業平」の詠であるから、そこに載せる「詞書」を「物語化」した、といった考え方は、今や定説と言っていいだろう(『伊勢物語』が『古今和歌集』以前に成立していて、『古今和歌集』はそれから採録した、というような説は間違いである)。

たとえば、『伊勢物語』にあって『古今和歌集』に載るところの和歌(在原業平・詠み人知らず)を持つ各章段は、基本的に、『古今和歌集』当該歌の「詞書」に基づきつつ「物語化」がなされた、ということは言えるのである。

このことは、現実問題としてはそうであろう。作者の物語制作の実際―手の内を考えれば、そういうことなのであるが、ただ、すでに『古今和歌集』が貴族社会に流布していて、そういう状況下において、『伊勢物語』が世に出て読まれる、という享受のかたちを考えてみたいのである。それは、単純に、「物語化」ということでは済まされないように思われる。

もう一度『伊勢物語』「60段」と『古今和歌集』「巻三」「夏」の当該歌の関係を考えてみよう。『古今和歌集』の当該歌は「題知らず、詠み人知らず」として載せられているのだが、『伊勢物語』「60段」は、その詠歌の事情を詳細に語るというかたちになっているのがわかるであろう。つまり、この物語が制作され提供された当初、それを読む側は、『古今和歌集』「巻三」「夏」の当該歌についての、言わば、今まで知られなかった誕生秘話とでもいうべきものを知るという別の面白さをも、味わうことになったのである。

つまり、『伊勢物語』という作品の面白さとしては、各章段が語る「話」の内容そのもの面白さであるとともに、『古今和歌集』では明らかになっていなかった当該の和歌の、その誕生の詳細な事情が語られるという側面があったのではなかろうか。ここに、「勅撰」(公)として成立した『古今和歌集』と「物語」(私)として成立した『伊勢物語』との、あざやかな対照性が見て取れるのである。

むろん、「60段」のテーマとでも言うべきものは、女の浅慮が招いた悲劇を、男の側の視点から残酷に描いたものなのだが、これは、当時の女に対する教育的役割を果たすテーマの一つでもあった。さらに言うならば、この「60段」の随所に、平安朝の貴族階層のうち、いわゆる「受領層」(中の品)に所属する人々の特色とでも言うべきものが示されている。作者と、この物語を読むべき第一次の読者が所属する世界は、むろん「受領層」であったと言わねばならない。

『伊勢物語』のこのような章段の場合、読者が楽しむのは、物語のテーマであるとともに、その誕生秘話でもあったのである。

―この稿続く―

 

2023.10.29 河地修

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