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王朝文学文化研究会 


文学文化舎



-伊勢物語論のための草稿的ノート-

第99回
「あだくらべかたみにしける男女」―色好みの応酬(第50段)

 

色好みの男女による和歌の応酬

第50段の登場人物は、男女ともに「色好み」と言っていい。しかも、共に「あだ」(浮気)であり、それを互いに非難し合うといった趣の章段である。むろん、「歌人」であるから、その非難の応酬は「歌」で行うのである。その応酬の妙が、この章段の見どころと言っていい。以下原文と現代語訳を掲げる。

昔、男ありけり。恨むる人を恨みて、

鳥の子を十づつ十を重ぬとも思はぬ人を思ふものかは

と言へりければ、

朝露は消え残りてもありぬべし誰かこの世を頼みはつべき

また、男、

吹く風に去年の桜は散らずともあな頼みがた人の心は

また、女、返し、

行く水に数書くよりもはかなきは思はぬ人を思ふなりけり

また、男、

行く水と過ぐるよはひと散る花といづれ待ててふことを聞くらむ

あだくらべかたみにしける男女の、しのびありきしけることなるべし。

(昔、男がいた。自分のことを恨む人(女)を逆に恨んで、

鳥の卵を十個ずつ十ほど重ねることが仮にできたとしても、自分を愛してくれない人を愛することはとてもできないことだ

と、詠み送ったところ、その女から、

朝露は、消え残ることはあるだろうが、いつかは消えるもの、そのようにはかないあなたとの仲を、どうして最後まで頼りにすることができようか

ふたたび、男は、

吹く風に、去年の桜の花が散ることなく残っていたとしても、そんなことはあり得ないが、なんとも頼みにできないことよ、女の心というものは

ふたたび、女が、返歌して、

行く水に数を書くことよりもはかないことは、自分を愛してくれない人を愛することでありましたよ

ふたたび、男が、

行く水と、過ぎてゆく人の年齢と、散る花と、いずれが「待て」という言葉を聞くものであろうか

はかなさやありもしないことを題にして、互いに歌を送り、競い合った男女が、相手の目を盗んで方々浮気をしていたことなのであろう。)

ここに登場する男女は、男が「恨むる人を恨みて」とあるように、互いに相手を「恨む」事情があるのである。男女間において相手を「恨む」とは、相手が浮気をしたことに起因することが多い。これが、互いに、ということであるから、男も女も、それぞれ浮気をしているのである。この章段の男女ともに、立派な「色好み」であることに間違いはあるまい。

したがって、不実の相手(どちらもそう思っているのであるが)に送る和歌は、その不実を糾弾し、その姿勢を詰る内容となるのである。この章段で繰り広げられる和歌の応酬は、そのテーマが共通のものとなっている。それが「あだ」ということで、「あだ」は、実のないこと、はかないこと、嘘、あるいは、とても実現しないことなどを表す。

 

「あだくらべ」とは「浮気」の張り合いか?

章段末の「あだくらべかたみにしける男女」とは、諸注が指摘するように、一見、「浮気の張り合い」と読みたいところだが、一部の注釈が指摘するように、ここでは「はかないもの比べ」(新潮日本古典集成)、「実のない、はかない歌のはかなさ比べ」(伊勢物語全評釈)といったような方向での理解が正しいのではあるまいか。

たしかに、恋の世界で「あだ」と言えば、不誠実で浮気、という意味で使われることが多い。しかし、ここでの「あだくらべかたみにしける」とは、この男女の和歌の応酬を指しているものと思われる。なぜなら、その男女相互の和歌に一貫するテーマは、相手を「恨む」というものだが、その表出にあたって用いられている比喩表現が、一貫して「あだ」という概念であるからだ。

最後のまとめとしての男の歌を除くと、それぞれの上の句は、「鳥の子を十づつ十を重ぬとも」「朝露は消え残りてもありぬべし」「吹く風に去年の桜は散らずとも」「行く水に数書くよりもはかなきは」と、まさに「あだ」の具体的な事象の列挙になっている。相手の不誠実で中身のない態度を、互いにあるはずのないこと(あだ)に譬えて非難したのである。

この非難の応酬に当たっては、二人が互いに浮気をしていることが前提であること言うまでもない。そのことは、最後の一文、

あだくらべかたみにしける男女の、忍びありきしけることなるべし

という物語作者(語り手)の注記文からも、実は明確に見て取れるのである。この章段末の一文の後半部分であるが、諸注、女の「忍びありき」というものに疑念を抱くものが多いが、この物語の場合、その世界は、いわゆる「受領層」(中流階級)が主要な舞台であって、この50段に登場する男女も、無名ではあるが、特に恋歌の詠出に長けた男女なのである。その行動は、女であっても、「忍びありき」を比較的可能にするような身軽さがあったに違いない。

 

 

2022.9.23 河地修

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