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王朝文学文化研究会 


文学文化舎



-伊勢物語論のための草稿的ノート-

第97回
「人待たむ里」―色好みの反省(第48段)

 

47段との関連―『古今和歌集』業平詠歌

第48段は、前段の47段と、二点において関連性が認められる。一つは、前段同様この詠歌が『古今和歌集』の業平詠に基づくものであること、もう一つは、「色好み」としての「昔、男」の特性を踏まえた話であることである。まず、48段の本文を掲げよう。

昔、男ありけり。馬のはなむけせむとて、人を待ちけるに、来ざりければ、

今ぞ知る苦しきものと人待たむ里(さと)をば離(か)れず訪ふべかりけり

(昔、男がいた。地方へ旅立つ人の送別の宴を催そうと、その人を待っていたが、来なかったので、

今になって初めて知ったことよ、人を待つことがこんなにも苦しいことと、夫の訪れを待っているであろう妻の所へは、間遠になることなく訪れるべきであったよ)

この章段の眼目は、友人の男が、国司として地方へ旅立つので、その送別の宴を行うことにしたが、なかなか来なかったので、その待ち遠しさの苦しさから、自分の所業(妻を訪れることが間遠になったこと)を思い、反省したというところであろう。47段で「あだなり」と評される「昔、男」(業平)同様、「色好み」らしいエピソードと言える。

そして、この48段は、47段と同様、『古今和歌集』の業平詠をもとに物語化されている。次に『古今和歌集』の本文を掲げてみよう。

紀利貞(きのとしさだ)が、阿波(あは)の介(すけ)にまかりける時、馬のはなむけせむとて、今日、と言い送れりける時に、ここかしこにまかり歩(あり)きて、夜ふくるまで見えざりければ、つかはしける、

(紀利貞が、阿波の国の介として赴任するときに、送別の宴を催そうとして、その日を今日、と言い送った時に、利貞があちらこちらに出かけていて、夜更けるまで姿を見せなかったので、送った、)

業平朝臣

今ぞ知る苦しきものと人待たむ里(さと)をば離(か)れず訪ふべかりけり

(『古今和歌集』「巻十八」「雑下」)

 

紀利貞との交遊―『古今和歌集』から

紀利貞は、その生年は不明だが、『古今和歌集目録』(藤原仲実)によると、元慶5年(881)に阿波介として赴任し、同年にその地で死去している。しかしながら、その前年(880年)に業平は没しているので、この詞書が示すようなやり取りはあり得ないことになる。このことは、『古今和歌集目録』の誤りとすべきであろう。ただ、この詞書に示すように、紀利貞と業平とが親密に交流していたことは間違いのないことであろうから、二人は、ほぼ同世代の人ではなかろうか。また紀利貞は、『古今和歌集』に計四首の歌が収録されているので、九世紀の紀氏を代表する歌人であったと思われる。紀有常と同様、業平とは相当に近しい関係であったのだろう。

その利貞が、送別の宴になかなか姿を見せなかったことから、業平は、人を待ちわびる苦しさを知った、と言うのである。「今ぞ知る」とは、今ようやく知ることになった、という心情であり、業平自身の、おそらくは「色好み」ゆえの「あだなる」所業を反省するという趣の詠歌と言えよう。

『伊勢物語』「48段」は、この「業平」と「紀利貞」との具体的な逸話から、それらの個別の要素を消去して物語化したのである。作者は、47段と同様、「昔、男」の「色好み」の特性を強調したかったものと思われる。

なお、紀利貞の官歴だが、元慶3年(879)に「大内記」(正六位上相当)(『古今和歌集目録』)、さらに同年「従五位下」(『日本三代実録』、『古今和歌集目録』)に叙されていることから、「阿波介」(従六位上相当)としての赴任は、その年よりも過去に遡ると見るのが妥当であろう。が、遡るとしても、貞観17年(875)の「少内記」(「正八位上」相当、『古今和歌集目録』)より過去ではあり得ず、とすれば、「阿波介」赴任は、元慶5年(881)ではないにしても、元慶年間(877~)なのではあるまいか。

仮に元慶元年(877)とすれば、その時、業平は、すでに53歳であるので、紀利貞とのやり取りは、晩年ということになる。そのように考えると、当該の業平詠歌は、若き日の「色好み」の所業に対する晩年における反省的詠嘆とも言えるであろう。

「48段」は、その章段の位置からしても、主人公の生涯はまだ半分にも達していないと見るべきである。そこでは、業平の晩年における反省的詠嘆、というような印象となることは、やはり、避けなければならなかったのであろう。

 

 

2022.3.21 河地修

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