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王朝文学文化研究会 


文学文化舎



-伊勢物語論のための草稿的ノート-

第78回
「天の下の色好み」―第39段の諸問題(一)

 

祟子内親王の死

『伊勢物語』「39段」は、和歌の解釈が難解であることで古くから議論が尽きない章段なのだが、その贈答の解釈以外でも投げ掛ける問題は多岐にわたっており、かつ、その諸問題には深いものがある。次に39段の全文を掲げておこう。

昔、西院の帝と申す帝おはしましけり。その帝のみこ、祟子(たかいこ)と申すいまそかりけり。そのみこうせ給ひて、御葬の夜、その宮の隣なりける男、御葬見むとて、女車にあひ乗りて出でたりけり。いと久しう率て出で奉らず。うち泣きてやみぬべかりけるあひだに、天の下の色好み源至といふ人、これももの見るに、この車を女車と見て、寄り来て、とかくなまめくあひだに、かの至、螢を捕りて女の車に入れたりけるを、車なりける人、この螢の灯す火にや見ゆらむ、灯し消ちなむずるとて、乗れる男の詠める、

出でていなば 限りなるべみ 灯し消ち 年経ぬるかと 泣く声を聞け

かの至、返し、

いとあはれ 泣くぞ聞こゆる 灯し消ち 消ゆるものとも 我は知らずな

天の下の色好みの歌にては、なほぞありける。至は、順が祖父なり。みこの本意なし。

(昔、西院の帝と申し上げる帝がおいでであった。その帝の皇女で、祟子と申す方がいらっしゃった。その祟子内親王がお亡くなりになって、御葬送の夜、その西院の隣に住んでいた男が、葬送を見ようとして、女房が乗る牛車に女と一緒に乗って出かけたのであった。ところが、葬送の車をとても長い間お引き出し申し上げることがない。葬送の行列を見ることなくひたすら泣くだけで終わってしまいそうであったその時、天下に名高い色好みの源至という人が、これもまた、葬列を見ようとしていて、そこにこの男が乗る牛車を女車と見て、近づいて、いろいろと誘いかけて来るその時に、その至が、 螢を捕って女車に入れたのであったが、車に乗っている人は、車の中がこの螢の灯す火 で見えるであろうか、灯りを消してしまおうということで、その車に乗っている男が詠 んだのであった、

葬列が出て行ってしまったならば、もうそれが内親王との最後の別れであろうから、螢の灯りを消して、宮様の生涯はどれほどの年月であったのかと泣く私たちの悲しい声をお聞きなさい

あの至の返歌は、

なんと悲しいことでありましょうか、悲しみに泣いておられる声が聞こえてきます。しかし、螢の灯りを消したとしても、その悲しみの声までもが消えるとは思われません

天下に名高い色好みの歌としては平凡な歌なのであった。至は、順の祖父である。内親王の死を悼むものとは全くかけ離れたものである。)

39段は、まず注目されるのが、16段や38段の「紀有常」の場合と同じく、章段中に歴史上の人物名が記されていることであろう。「西院の帝」とは淳和天皇のことであるが、「西院(淳和院)」を上皇御所としたのでこのように呼ばれる。その皇女である祟子内親王の葬送の夜ということであるから、この章段の時代は明確に特定できるということになる。

淳和天皇は、弘仁14年(823)嵯峨天皇の譲位を承けて即位した天皇だが、もともとは、嵯峨天皇の時に於ける皇太弟(皇太子)ではなかった。いわゆる薬子の変での高岳親王廃太子を承けて皇太子となった人物であったから、自身の即位に伴う皇太子には、嵯峨天皇の皇子である正良親王を立てるのは当然のことであった。この正良親王が後の仁明天皇である。そして、天長10年(833)仁明が即位してその皇太子には、淳和の皇子恒貞親王が皇太子となったが、承和9年(842)の承和の変に於いて、その恒貞親王が廃され、仁明の皇子である道康親王(文徳天皇)の立太子となったのはよく知られている。

淳和天皇は、譲位(833)後、淳和院(西院)に住み、承和7年(840)に没した。2年後の承和の変で、皇子の恒貞親王が廃太子となることなど知るよしもなかったであろうが、しかし、北家藤原良房の存在はすでに脅威となっていたはずで、その晩年は、心穏やかな余生と言えたかどうか―。崩御後、その遺骨は、遺詔に従い大原野の西山の嶺に散骨されたという。

さて、その淳和天皇の皇女祟子内親王であるが、その薨去は、承和15年(848)5月15日のことで、19歳であった。19歳での薨去から逆算すれば、その出生は、天長6年(829)、淳和天皇の即位6年目の43歳の頃ということになろうか。 祟子は、淳和天皇の後半生所生の皇女と言っていいが、その母は、橘舟子と伝えられている。舟子は、後宮内の宮女であったが、そういう身分の舟子が産んだ祟子が、内親王として正式に皇女に数えられたのは、9世紀前半の橘氏の朝廷内勢力の伸長という背景があったものと思われる。ただし、9世紀後半からは、承和の変(842年)の影響もあって、橘氏は没落した。

39段での「西院の帝」の内親王「祟子」の薨去を背景とする物語は、9世紀の落魄しつつある皇族貴族の悲哀に彩られていることを忘れてはならない。

 

 

2018.8.6 河地修

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