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王朝文学文化研究会 


文学文化舎



-伊勢物語論のための草稿的ノート-

第76回
古歌(萬葉)のイメージ(33段~37段)(二)

 

「言へばえに」―34段の歌

33段に続く34段は、「昔、男」が「つれなかりける人」(相手にしてくれなかった人)に、「おもなくて」(体面など気にせずに)胸中を熱く訴える和歌を送ったというもので、その思いが直截的に表現されている点、「萬葉」的な性質を有していると言えよう。次に掲げる歌である。

言へばえに 言はねば胸に 騒がれて 心ひとつに 嘆くころかな

(言葉で言おうとしても、とても言い表すことができず、あなたへの思いを言わずにい るから、その思いが自分の胸で騒ぐことになって、私の心一つだけで恋に嘆くころであ るよ)

この和歌の直截的なイメージは、和歌に句切れがないところからも理解されよう。男の苦衷の思いを、ストレートに歌い上げた感がある。そういう和歌の内容面でのイメージとは別に、実は、この和歌で用いられている語法が『萬葉集』の時代に近いのである。それは、初句「言へばえに」の「えに」という語法である。この「えに」について、『日本国語大事典』は次のような解説を載せている。

動詞「う(得)」の未然形に、上代の打消の助動詞の連用形「に」が付いたもの

さらに、「補注」として、

形式化した修辞の一つとして、「言へばえに」の形で用いられることが多い。

と述べており、この34段の当該歌が例示されている。

このように、「言へばえに」という表現が古い時代の語法であって、これをごく普通に和歌で使用するところに、この歌の「古歌のイメージ」を指摘することが可能なのである。こういう言葉遣いの世界に身を置く歌人が、この物語の主人公の一人ということなのであって、それは、『古今集』の「古」の時代の人と言うにふさわしいものがある。

 

「萬葉歌」の改作―35、36、37段

「33段」の男の歌が、『萬葉集』「巻4」「山口女王、大伴宿祢家持に贈る歌五首」の中の一首に近似していることはすでに述べた。そこでは、あえて「改作」という言葉は用いなかったが、諸注は、そういう方向で考えている。共通する「上の句」を「序詞的」に用いたということを、「改作」と言ったとしても、間違いにはなるまい。

実は、この「33段」だけではなく、「35段」「36段」「37段」にある和歌は、いずれも、諸注、『萬葉集』の改作という立場を取っている。それぞれ並べて掲げてみよう。

 

「35段」

玉の緒を 沫緒に縒りて 結べれば 絶えての後も 逢はむとぞ思ふ

『萬葉集』「巻4」

玉緒乎 沫緒二縒而 結有者 在手後二毛 不相在目八方

(玉の緒を 沫緒に縒りて 結べれば 在りての後にも 逢はざらめやも)

 

「36段」

玉の緒を 沫緒に縒りて 結べれば 絶えての後も 逢はむとぞ思ふ

『萬葉集』「巻4」

玉緒乎 沫緒二縒而 結有者 在手後二毛 不相在目八方

(玉の緒を 沫緒に縒りて 結べれば 在りての後にも 逢はざらめやも)

 

「37段」

二人して 結びし紐を 一人して あひ見るまでは 解かじとぞ思ふ

『萬葉集』「巻12」

二為而 結之紐乎 一為而 吾者解不見 直相及者

(二人して 結びし紐を 一人して 吾は解き見じ ただに逢うまでは)

 

このように、33段も含めて35、36、37段は、明らかに『萬葉集』の歌を踏まえたものと断定していいように思われる。諸注、『萬葉集』の「改作」という見方を示す所以である。34段が萬葉の時代に遡る古い語法を示すとともに、33、35、36、37段が、「萬葉歌」の改作であることを明確に示していることは、この物語が、『萬葉集』の時代を意識しようとすることの表れであろうと思われる。

 

『萬葉集』を「改作」するということ

ところで、『萬葉集』を「改作」するということは、この物語の作者が、その制作時において、『萬葉集』を直接閲読する立場にあったか、あるいは、直接閲読したことがあった人物ではないかと考えなくてはならない。というのは、9世紀に入ってから、『萬葉集』中の和歌が、一般に広く知られていたとは考えにくいからである。

周知のとおり、『萬葉集』が最終的に編纂されたのは、大伴家持によるものと断定していい。それは、『萬葉集』の巻17から最終巻の巻20までが大伴家持を中心とする大伴氏の家集と言っていい体裁であるからだ。そして、巻20の最終歌(『萬葉集』の最終歌である)が、家持の因幡国庁で詠った正月一日の歌であることはよく知られている。この日が、天平宝字3年(759)正月であることから、厳密に言えは、『萬葉集』はこの日以降に編集が行われたことになる。大伴家持が没したのは、延暦4年(785)8月のことであったから、最終編集の下限としては、この年までということになるのである。

しかし、延暦4年(785)9月に起こった藤原種継暗殺事件において、家持はその首謀者とされ、断罪されたのであった。つまり、家持の死後ではあったが、その官位等はすべて剥奪されたのであり、また、家持の子息の永主も隠岐国へと流罪になったから、仮に、この時大伴家持の自宅に『萬葉集』があったとすれば、それは間違いなく朝廷に没収されたに違いない。

そして、『萬葉集』は、そのまま朝廷内において封印されたと思われる。そして、その封印が解かれたのは、桓武天皇が崩御した日、すなわち平城天皇即位の時(延暦25年(806年))であったろう。平城帝の恩赦によって、大伴家持の復位が果たされたからである。

それから後の『萬葉集』は、確実に宮中内に在り続けたと思われる。たとえば、『古今和歌集』「巻18」「雑下」の文屋有季の歌からは、貞観年間(859~877)に、天皇(清和天皇であろう)の話題に上る位置に『萬葉集』があったことがわかるのである。さらに、天暦5年(951)には、宮中の昭陽舎(梨壺)で、いわゆる「梨壺の五人」によりその解読作業が行われ、『萬葉集』は、ながらく朝廷の保管するところのものであったことがわかるのである。

このように、『萬葉集』は、785年、朝廷に没収されたことによって、逆にその散佚が防がれることとなった。そして、平城天皇即位の時(806年)に、その封印が解かれたものの、しかし、時代はすぐに国風暗黒時代(9世紀)へと入ったのであった。それから後は、おそらく、宮中の然るべき所(御書所)で保管され続けたに違いない。

そういう『萬葉集』の和歌について、「改作」という作業を行うということを、我々は、いったいどのように考えればいいのだろうか。それは、まさしく、『伊勢物語』の作者が、『萬葉集』を容易に閲読できる立場にいたということを物語るものであろう。

『古今和歌集』編纂当時、紀貫之は、「御書所預」(御書の所の預り)であった。『萬葉集』の閲読、あるいは、その和歌について、「改作」というような作業ができる人物は、歴史上、紀貫之を措いて他にはいないのである。この国の文学史について、我々は、もう少し精緻に検討しなければならないとつくづく思う。

 

2018.6.16 河地修

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