河地修ホームページ Kawaji Osamu
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王朝文学文化研究会 


文学文化舎



-伊勢物語論のための草稿的ノート-

第74回
「津の国、菟原の郡」の「女」と「昔、男」―『伊勢物語』「第33段」

 

「津の国、菟原の郡」に通う「男」

第33段は、唐突に「昔、男」が「津の国、菟原(むばら)の郡」に住む「女」に通うという話である。次に掲げてみよう。

昔、男、津の国、菟原の郡に通ひける、女、このたび行きてはまたは来じと思へるけしきなれば、男、

蘆辺より 満ち来る潮の いやましに 君に心を 思ひますかな

返し、

こもり江に 思ふ心を いかでかは 舟さす棹の さして知るべき

ゐなか人の言にては、よしや、あしや。

(昔、男が、摂津の国、菟原の郡に通っていたが、そこの女が、この男が今回都に行ったならもう次は来ないだろうと思っている様子なので、男は、

蘆の茂っている水辺から満ちて来る潮がますます増えてくるように、私のあなたへの愛情は、ますます増すことであるよ

返し、

隠り江のようになかなか見えにくいあなたの心を、舟を動かすために棹を刺すという言葉ではないが、どうして、さして―そうだとはっきり知ることができようか

都外の地のうた人の歌ということでは、さあ、見事な歌なのか、駄目な歌なのか。)

「津の国」とは「摂津国」のことで、現在の行政区域で言えば、大阪市から兵庫県の南東部あたりということになる。その範囲はけっして狭くはないが、男の歌の「蘆辺」や女の歌の「隠り江」、さらに、この物語の「第87段」との関連を考えるなら、女が住む場所は、「蘆屋」(あしや)と断定していいだろう。現在の芦屋市あたりということになるが、都からこの地の女に通うということは、男とこの地との間に何らかの関係があるというべきであって、これもまた「87段」の記述がヒントを与えてくれるであろう。その冒頭の一文を掲げる。

昔、男、津の国、菟原の郡、蘆屋の里に、知るよしして、行きて住みけり。

(昔、男が、摂津の国、菟原の郡、蘆屋の里に、所領があったので、出掛けて行って住んでいた。)

「87段」は、この冒頭の後、在原業平と思われる主人公の「男」とその友人、さらに「この男の兄」(行平)たちが、名瀑「布引の滝」に登って和歌を詠む場面になり、その後は、住まいがある海岸の情景などが描写され、そこでの「男」や「女方」の詠歌が紹介される内容となっている。かなり長い章段なのであるが、「33段」の章段末尾の表現に似た「ゐなか人の歌にては、あまれりや、たらずや」(都外の人の歌としては、十分であろうか、不十分であろうか)という一文があり、両者が同一の次元で語られていることを示している。

この「33段」を「87段」と併せ読むならば、主人公「昔、男」は、摂津の国、菟原の郡、蘆屋の里に、所領地、いわゆる荘園を持っており、その地の女に、都から通って来る男がいたということが分かるのである。

業平は、生涯を通じて、官位こそ低かったが、生活面では不自由はなかったものと思われる。その経済面での裏付けは、父方母方からの荘園の相続であっただろう。平城京郊外には、平城上皇ゆかりの所領が阿保親王を通じてもたらされ、さらに、母の伊都内親王からは、長岡の地の荘園がもたらされたと断定していい。そして、『伊勢物語』「33段」「87段」は、これらに加えて、摂津の蘆屋の里にも荘園が存在したことを示している。

この33段の場合、「男」が業平であるという確証はないが、そこに業平の荘園があるのであれば、本人はむろんのこと、業平の関係者の往来は多かったに違いない。自然と、この章段に見られるような男女の物語は発生したことであろう。女が、都の男が「このたび行きてはまたは来じ」と思うような状況設定には、リアリティーがあると言うべきであろう。

そして、章段末尾の注記文「ゐなか人の言にては、よしや、あしや」であるが、「あし」(最低)と評価される詠歌が、ここで紹介されるということはなかろう。都以外の土地に住む女の歌でも、人の心を動かし得る詠歌は充分可能であること、かつてのみちのく章段ですでに証明済みであった。

 

2018.3.18 河地修

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