-伊勢物語論のための草稿的ノート-
第67回
『伊勢物語』に見られる縁語的発想に基づく配列(25~28段)
『伊勢物語』は、章段の中で、ある程度分量があって読み応えのあるものと、ほとんど簡単な詞書程度の短いものしか有していない章段がある。すなわち大小様々な章段から構成されているのが『伊勢物語』と言っていいのだが、こういう種々様々な形態こそ9世紀の「うた」の詠歌事情を物語る結果のものと言っていい。このような9世紀の詠歌事情を語るものは、『古今集』の「古」の時代の詠歌も相当するのだが、こちらは「部立」毎に収載されたことになる。
実は、25段も、形態こそ贈答だが、物語としてはきわめて短い。その短い物語が、おそらくは、以下の章段に連続して配列されたと言っていいだろう。そして、そこには、『古今集』の配列原理と同様のものが見られるのであって、それは「連鎖」の配列なのである。第26段の歌から28段の歌まで並記してみよう。
26段
おもほえず 袖に港(みなと)の 騒ぐかな もろこし船の 寄りしばかりに
(思いがけないことに、袖に港のような大量の海水が騒ぐ―涙で濡れることです。唐土船のような、あなたからの意外なお便りがあったばっかりに)
27段
我ばかり もの思ふ人は またもあらじと 思へば水の 下にもありけり
(自分ほど物思いに苦しむ人間は他にはいないだろうと思ったら、なんと水の中にもいたことであるよ)
水口に われや見ゆらむ かはづさへ 水の下にて もろ声になく
(水口に私が見えているのであろうか。蛙までもが水の下で一緒に鳴く―水の中に見えたというのはこの私なのであるよ)
28段
などてかく あふごかたみに なりにけむ 水漏らさじと 結びしものを
(どうしてこのように逢う時が難しいことになったのであろうか。水も漏らすことができないほど固く愛を誓い合ったのに)
この章段相互の関連は、歌語の縁語的発想で繋がっていると言えるだろう。すなわち、「港」―「水の下―「水」という繋がりである。この水の縁語による繋がりは、すでに25段の「ひち(濡れる)」・「浦」から始まっていたのであり、こういう縁語的発想の配列こそ『古今集』に多く見られる特徴なのである。そして、この一連の群(25段~28段)をまとめる意識として、「25段」の「色好みなる女」、そして「28段」の「色好みなりける女」という表現の呼応があることを認めないわけにはいかないだろう。
『伊勢物語』には、こういう配列においても『古今集』と共通の意識と原理が見られることを指摘しておきたい。
2018.1.2 河地修
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