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王朝文学文化研究会 


文学文化舎



-伊勢物語論のための草稿的ノート-

第34回
「武蔵なる男」と「京なる女」―都鄙意識について(二)

 

「武蔵なる男」について、角川文庫の『新版伊勢物語』(石田穣二博士)は、「男はすでに武蔵の国に生活の根をおろしている感じがある」との脚注を付している。的を射た解説と言っていい。男は、かつては都の貴族階層に属する一員であったのである。しかし、背に腹は代えられず、都を棄てたのであった。都を棄てるということは、取りも直さず、貴族階層からの脱落を意味する。

「男が「京なる女」に手紙をやる目的とは、まず、自身の安寧でなければならないのは当然のことと思われる。男は自身の無事の知らせを送らねばならなかった。その具体的報告となるものが、東国の地での婚姻だったのである。そのことを、端的に知らせようとしたのが「むさしあふみ」という上書きであろう。

「そして、この「むさしあふみ」に、女は、掛詞としての「武蔵鐙(むさしあぶみ)」の微妙な語性に注目したのであった。

「この「武蔵鐙」だが、女の和歌で「武蔵鐙さすがにかけて」とあるので、これは、とにかく馬に乗る際に足を掛ける「鐙(あぶみ)」であることは間違いない。「鐙」とは、とにかく、馬の左右の側面に垂らして足を掛けるものであるから、「かける(掛ける)」という言葉が導かれるであろう。問題は、その前にある「さすが」ということになる。『日本国語大辞典』(小学館)は、「むさしあぶみ(武蔵鐙)」について、本章段の用例を指摘して次のように解説する。

武蔵国からつくり出された鐙。また、その様式にならった鐙。壺鐙(つぼあぶみ)や半舌鐙(はんじたあぶみ)などが鞍の居木(いぎ)にかけるのに鋂(くさり)を連絡して鉸具(かこ)にかけたのに対して、鋂を用いないで、透しを入れた鉄板にして先端に刺金(さすが)をつけ、直接に鉸具としたもの。鐙の端に刺金を作りつけにするところから、和歌では「さすがに」、また、鐙は踏むところから「踏む」「文(ふみ)」にかけて用いられる。

この解説にもあるように、鋂を用いずに鐙の端に刺金(さすが)を作りつけにするところに特色があった鐙ということになろう。ただ、鐙は鐙であって、馬に乗るときの道具、すなわち「鐙」であることに変わりはない。都にも馬はいるもので、当然「鐙」もあるわけだが、これは、武蔵(東国)特有の鐙ということなのである。

おそらく、「むさしあふみ」と言う上書の文を手にした都の女は、そこに「逢ふ身」、すなわち、男の武蔵での婚姻を知ると同時に、「武蔵鐙」という語性を活かした和歌を送ったものと思われる。それが「さすが」という言葉なのである。

 

「さすが」とは、まず武蔵鐙の「刺金(さすが)」であるが、さらに掛詞として、副詞的に用いられる「さすがに」が読み込まれている。そうは言ってもやはり、ということで、そのことを認めながらも、しかし、一方でそれを認めたくないという複雑な心情を表現する言葉と言っていい。女の心理として、男の武蔵での婚姻を受け入れざるを得ないとしながらも、一方で生じるある複雑な思いが読み込まれているのである。その思いとは何か―。その心情が歌の下の句「問はぬもつらし問ふもうるさし」なのである。

「問はぬもつらし」とは、男から連絡がないのはひどい、ということだが、「問ふもうるさし」とは、連絡があるのも嫌だ、という心情を表している。都に残された女としては、歌の上の句にある「さすがにかけてたのむ」とあるように、自分の夫としてはこの男以外にはいないということなのである。それは、一たび夫婦として契った以上、女の思いとはそういうものであろう。しかし、そうではありながら「問ふもうるさし」と言うのである。この場合の嫌悪する女の心理は、単に自分の夫が自分以外の女と婚姻関係を結んだということだけではないのである。それは、男の手紙に書かれていた「恥づかし」という形容詞が表すところのものと思われる。

 

中古語の「恥づかし」とは、現代語のそれとは少し違う。それは、そこに比較対照される二つのものがあって、両者の優劣の関係において生じる「負」の心理を表現する言葉なのである。例えば、単に「恥づかしき人」と表現される場合、その人が恥ずかしい評価を受ける人、ということではなく、比較されるこちらが恥ずかしくなるような人、ということで、つまりは、立派な人、ということなのである。すなわち、ここでは、男が都から東国に下り、東国の女と婚姻を結んで「武蔵なる男」と表現されるような人間になったことに、当の男自身が引け目を感じるという意識なのである。女からすれば、東国人になってしまった男に、いまだ夫としての愛情を持ちながらも、都人の立場からそのことに嫌悪感を持たざるを得ないという心理なのである。

このような都に対して感じる地方の劣等意識は、絶対的に都が優れており、地方(特に東国)が絶対的に劣っている、という強烈な認識からもたらされるものなのである。これを「都」の「みやび」と「東国」の「ひなび」との関係において生じる優劣感情という意味で、「都鄙意識」と呼ぶのであるが、こういった意識の根源は、この国の古代中央集権国家の成り立ちに求めることができるのだが、これについては、拙著『黎明の日本文学文化』(文学文化舎)を参照していただきたい。

『伊勢物語』「十三段」に続く「十四段・十五段」と、東国からさらに「陸奥」へと物語世界が進展するにつれて、この「都鄙意識」は、容赦なくその絶対的位相の差異を我々に見せつけることになるのである。

 

2017.3.28 河地修

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