河地修ホームページ Kawaji Osamu
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王朝文学文化研究会 


文学文化舎



-伊勢物語論のための草稿的ノート-

第10回
『伊勢物語』の成立を考える(五)
いわゆる「成長論」について―(1)

片桐洋一氏が提唱された成立論(「在中将集成立存義」『国語国文』(昭和32年2月号・「伊勢物語の成長に関する覚書」『国語国文』(昭和33年7月号)。後に『伊勢物語研究[研究編]』(明治書院、昭和43年(1968)に補正して採録された)は、発表当時、大きな反響を呼んだ。玉上琢弥氏は、塙選書の『物語文学』(昭和35年(1960)7月1日)誌上でこれを詳細に紹介されたし、大津有一氏も、岩波文庫『伊勢物語』(昭和39年(1964)12 月16日)の解説で紹介され、「この新説は仮定の上に組み立てられたものではあるが、まことに見事な推理を展開している」と述べられた。さらに、大野晋氏の薫陶を受けた辛島稔子氏は、片桐氏の仮説に立脚した国語学的観点からの論文「伊勢物語の三元的成立の論」を、『文学』(昭和36年10月号、岩波書店) 誌上に発表され、さらに、後には、大野晋氏が、『伊勢物語総索引』(昭和47年(1972)5月15日)の「付録」として、この辛島氏の論文を付載されるに至った。

私が東洋大学国文学科に入学したのは昭和46年(1971)のことであったが、片桐氏が、『伊勢物語研究[研究編]』を出版されて間もない頃ということも あって、当時の国文学研究室においても、片桐氏の学説は、ほとんど定説としての扱いであったように記憶している。地味な国文学の分野では珍しいことだが、片桐氏の「成立論」は、言わば“時代の寵児”といったような趣があったのではなかったかと思う。書誌学が主流であった当時の国文学界においては、氏のよう な仮説に基づく研究は極めて新鮮なものとして受け取られたように思う。卒論で偶然『伊勢物語』を取り上げることになった私は、やがてその本格的な研究に没 頭することになったが、大学院進学前後の頃、氏の『伊勢物語研究』を、夜の更けるのも忘れて読み耽ったことを今でも鮮明に覚えている。

片桐氏の成立論について端的に述べるとするならば、『伊勢物語』は、『古今集』成立前後の頃から、約1世紀という歳月に渡って不断の成長増益を続け、そして『拾遺集』成立の頃に、現在の125段前後の規模のものになったとするものである。従って、氏の成立論とは、百年もの間、多くの人々がその成長に関与し 続けたということを意味するのであって、その意味では、むしろ「成長論」と呼ぶべき性質のものと思われる。そして、氏の成立論が何よりも注目されたのは、10世紀中ごろから11世紀初頭にかけての、氏の推測される当時の『伊勢物語』の具体的な規模を、他の文献との比較考証による実証的推論で明示されたことにあった。すなわち、『後撰集』成立以降『拾遺集』成立以前に編纂されたと思われる『在中将集』および『雅平本業平集』という文献との比較という手法の導入であった。

氏は、当時、『伊勢物語』は「在原業平」の実伝として読まれていたから、物語のすべての「男」の歌が「業平」の歌としてこれらの「業平家集」には取り込まれたはずだ、との仮説を立て、すなわち、『後撰集』から『拾遺集』以前の成立と推定されるこれらの「業平家集」こそ、その当時の『伊勢物語』の規模を忠実に反映するものだと主張されたのである。これらの「業平家集」は、おおよそ50~60首程度の業平の歌を載せるものであるから、とすれば、これらの「業平 家集」が成立した10世紀中ごろの『伊勢物語』の規模は、「業平家集」に載っている50~60首程度の業平の歌に関わる段のみのもので、現在のほぼ半分程度の規模に過ぎなかった、ということになるのである。

この学説については、当時から批判や反論も多かったようだが、しかし、もともと、『伊勢物語』は最初から現在のような規模のものではなかっただろうと、多くの研究者が漠然と考えていたと思われるような経緯もあって、片桐説は、ほとんど“実証”と言っていい評価が下されたのであった。

学界を席捲する時代の寵児としての仮説は、ひとたび走り出すと、それを誰も止めることはできなかったのである。

―この稿続く―

2010.8.3 河地修

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