河地修ホームページ Kawaji Osamu
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王朝文学文化研究会 


文学文化舎



-伊勢物語論のための草稿的ノート-

第6回
『伊勢物語』の成立を考える(二)
『伊勢物語』の時代設定(実名章段のこと)―

『伊勢物語』の時代設定は、明らかに9世紀を射程している。このことと連動するように、この物語には9世紀に実在した人物が登場している。以下、章段順に掲げてみよう。

3段― 「二条の后の、まだ帝にも仕うまつりたまはで、ただ人にておはしましける時」
5段― 「二条の后に忍びて参りけるを」
6段― 「二条の后の、いとこの女御の御もとに、仕うまつるやうにてゐたまへりけるを、かたちのいとめでたくおはしければ、盗みて負ひていでたりけるを、御兄人堀河の大臣、太郎国経の大納言、まだ下﨟にて~まだいと若うて、后のただにおはしける時とや」

3段から6段までのいわゆる「二条后物語」であるが、「二条の后」とは、藤原高子(842~910)のこと。その「ただ人」時代という設定であるから、 3~6段の時代設定は、高子が女御として清和天皇妃となった866年以前のこととなる。さらに、物語の内容から、文徳天皇の在位時代であることがわかるの で、厳密に言えば、文徳天皇の時代(在位:850~858)という設定である。この間、藤原高子は満8歳~16歳という年齢であった。また「御兄人」の 「堀河の大臣、太郎国経の大納言」とは、藤原基経(836~891)、国経(828~908)であるが、「まだ下﨟」であった時代というのであるから、ま さに、それは、文徳天皇の時代というにふさわしい。

16段― 「むかし、紀有常といふ人ありけり」
38段― 「むかし、紀有常がり行きたるに」

紀有常(815~877)は、紀名虎の子。文徳天皇の后で惟喬親王の母・静子の兄である。

39段― 「むかし、西院の帝と申す帝おはしましけり。その帝のみこ、たかい子と申すいまそがりけり。そのみこうせ給ひて」
「天の下の色好み源至」
「至は順が祖父なり」

「西院の帝」とは、53代天皇の淳和天皇(在位:823~833)のことであるが、その内親王祟子の薨去は、西暦848年5月15日のことであった。「源至」の生没年は不詳だが、父の定が863年49歳で死去しているので、仮に定20歳の時の子と考えれば、至は848年当時14歳ということになる。物語内容からすれば、至の青春時代のエピソードと言えなくもない。いずれにせよ、物語内容は、西暦848年5月15日の夜のことである。

ただし、章段末尾の「至は順が祖父なり」の扱いは難しい。いわゆる物語の語り手の解説的注記文というべき性質のものだが、早い書写段階での後人の追記的メモ書きの類とも考えられる。仮に、これを『伊勢物語』の作者の手になるものとする立場に立つならば、その成立時点のぎりぎりの下限を示すものとも考えられようが、その場合は、源順(911~983)の極めて若い時のこととなろう。成立のみならず、作者の問

-この稿続く-

2010.3.10 河地修

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