河地修ホームページ Kawaji Osamu
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王朝文学文化研究会 


文学文化舎



-伊勢物語論のための草稿的ノート-

第1回
『伊勢物語』の成立を考える(一)
『源氏物語』「絵合」巻をめぐって―『宇津保』と『竹取』―

『伊勢物語』の書名が初めて文献上に現れるのは、『源氏物語』「絵合」巻である。『源氏物語』の成立を、今仮に1008年とするならば、当然『伊勢物語』 の成立はその年以前ということになるのだが、どの程度以前かということになると、明確な判断材料に欠ける。しかしながら、基本的に書き言葉としての和文 (仮名文)は、9世紀末ごろに確立したと思われるので、その頃からのおよそ1世紀を想定すればいいということになる。この1世紀について、もう少し詰めて おきたいというのが、私の思いでもある。

『源氏物語』「絵合」巻は、源氏が須磨から帰京後、政権の中枢としての磐石の階梯を築いていく過程を描くもので、今上帝(冷泉)の後宮には、弘徽殿の女御 (父権中納言)、斎宮の女御(六条御息所娘、後見源氏)などが入内して、それぞれ寵を競うという構図であった。斎宮の女御は絵に堪能であり、その道を好む 帝は、次第に女御に心を移していくのだが、もちろん、権中納言も、次々と新作の絵を制作して、帝の心をひきつけようとするのであった。それに対して源氏 は、伝来の古典画を帝に献上しようとするのであった。ここに、藤原権中納言方(弘徽殿の女御)が新作絵画、光源氏方(斎宮の女御)が古典絵画、という構図 ができあがったのである。

こうして、後宮内に絵画論議の熱が高まり、藤壺の御前で、左右に分かれての絵合せが行われることとなった。この絵合せは、引き続いて行われる帝の御前での本格的絵合せの予行的行事ともなったのである。

この藤壺の御前での絵合せは、日本文学史の立場から言っても、実に重要な意味合いを持つものとなった。以下、丁寧に見てみよう。

この絵合せで、まず合せられたのが、斎宮女御方(左)の『竹取物語』と弘徽殿の女御方(右)の『宇津保物語』とであった。いずれも王朝物語文学史を飾る作 品と言っていい。「物語の出で来はじめの祖なる竹取の翁に宇津保の俊蔭を合はせてあらそふ」という箇所からは、『竹取物語』が物語の最初のものという認識 が示されていて注目されるが、この場合の「物語」とは、いわゆる「作り物語」ということで、本格的に創作された物語としては、最初にその名を刻印すべきだ と言うのであろう。物語作家としての紫式部の、ある種高揚した物語観を見ることができると言うべきである。

この両者の争いは、結果的に、『竹取物語』の完敗、『宇津保物語』の圧勝に終わった。その理由については詳細に述べられているのだが、たとえば、『竹取』 は、登場人物たちの身分が低く、また、ヒロインのかぐや姫が后の位に昇ることがなかった、という点などが注目されるであろう。それに対して、『宇津保』 は、「唐土と日の本とを取り並べて、おもしろきことどもなほ並びなし」とあるように、エンターテイメント性に特段優れていることなどが指摘されていると思 われる。そのなかでも、私は、『宇津保』が「絵は常則、手は道風なれば、今めかしうをかしげに、目もかかやくまで見ゆ」と賞賛されているところに注目したいのである。

『宇津保』は「今めかし」―当世風で新しい、というのである。「物語」もまた、その他の多くの商品と同じように、その価値は基本的に新しいものでなければならなかった、と考えるべきであろう。


-この稿続く-

2010.1.1 河地修

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