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王朝文学文化研究会 


文学文化舎



-源氏物語講話-

第39回
大い君の死について(二十一)


業平の辞世―昨日今日とは思はざりしを

『古今和歌集』「巻十六」「哀傷」に在原業平の辞世の歌が存在する。『伊勢物語』の最終段にもあるが、『古今和歌集』に載せるものを引用しよう。

病して弱くなりにける時によめる

(病気になっていよいよ弱くなってしまった時に詠んだ)

業平朝臣

つひにゆく道とはかねて聞きしかど昨日今日とは思はざりしを

(最後には死出の道へゆくとは前々から聞いてはいたが、本当に我が身に昨日今日のこととして起こるとは、思わなかったことだ)

この業平の歌は、『伊勢物語』の最終段にもほぼ同じ形で載せている。『伊勢物語』では、「心地死ぬべくおぼえければ」とあって、『古今和歌集』の「弱くなりにける時」と比べて、より「死」に直面しているという意識が強い。むろん、『古今和歌集』の業平詠も、「哀傷」の一首であり、「弱くなりにける時」とは、生命が尽きようとしている時である。

この業平の辞世は、後世多くの人々から評価された。たとえば、契沖は、『勢語臆断』で、

死ぬることのがれぬならひとはかねて聞きおきたれど、きのふけふとならんとは思はざりしをとは、誰もその時にあたりて思ふべきことなり。これまことありて、人のをしへにもよき歌なり。

(死ぬことは逃れられない道理とは前から聞いていたが、それが昨日今日のことになろうとは思わなかった、このことは誰もが死に臨んだ時に思うに違いないことである。これは真理であって、人の教えにも恰好の和歌である)

と述べている。

つまり、多くの人間にとって、死は、現実問題としてその到来の時を前もって知ることはなかなかできないということで、まさに「昨日今日」という段階を迎えて、初めて知ることができるというのである。考えてみれば当たり前のことと言えるのかもしれない。一般的には、人は、常に死を目前に意識しながら生きているわけではないのである。

このことは、八の宮の山寺参籠の時とて同じではなかったか。結果として、この山寺参籠で死去する八の宮だが、そのことを、「昨日今日」のこととして実感していたわけではあるまい。むろん、人はいつ死を迎えるかはわからない。それが、明日であるか、あるいは、さらにその先のことであるか―。求道の人としての八の宮は、死というものと常に隣り合わせに生きるという覚悟の行を積みながらも、しかし、ついに「昨日今日とは思はざりしを」という業平の思いと同様のものが、突然我が身にふりかかったものと思われる。

山寺参籠が終わる当日の夕暮、姫君たちのもとに八の宮からの使いが到着する。八の宮からの伝言の手紙は、

今朝よりなやましくてなむ、え参らぬ。風邪かとて、とかくつくろふとものするほどになむ。さるは、例よりも対面心もとなきを。

(今朝から具合が悪くて、そちらへ伺うことができない。風邪かということで、いろいろ手当をしているところで。それにしても、いつもよりあなた方のお顔が見たくてならぬが)

という文面であった。病を得た、ということが伝えられているが、ここにおいても、八の宮は、現実として自身が今「死」に直面しているという認識はないのである。心配した姉妹が温かい衣などを送り、どのような様子かを聞いても、八の宮は、

ことにおどろおどろしくはあらず、そこはかとなく苦しくなむ、すこしもよろしうならば、今念じて

(特に深刻な状態ではない、なんとなく苦しいので、少しでも楽になれば、近いうちに無理をしてでも帰ろう)

と口頭での伝言を託した。その内容からは、あきらかに、今死を迎えているという切迫した思いはないであろう。八の宮は、帰るつもりでいる。自身の死が、「昨日今日」のこととは、少なくとも、この段階では認識していないのである。

さらに言うならば、阿闍梨の行動の描写である。「阿闍梨、つとさぶらひてつかうまつれり」(阿闍梨は、ぴったりとお側に控えてお世話申し上げている)と懸命の介護を努めていることが描写されるのであるが、八の宮に対して、

はかなき御なやみと見ゆれど、限りのたびにもおはしますらむ、君たちの御こと、何かおぼし嘆くべき、人は皆、御宿世といふもの異々なれば、御心にかかるべきにもおはしまさず」

(たいしたことではない御病気と思われるが、これがご最期でもあられるであろう、姫君たちのこれからの御ことは、どうしてご心配なさることがあろうか、人には皆、この世の御宿運というものはそれぞれに定まっているものであるから、御心配なさるべきことでもあられない)

と述べている。

八の宮が臨終を迎えようとしているのであれば、この世の執着のすべてを捨てさせようとの導師としての言葉と思われるが、ここで注意したいのは、阿闍梨が「君たちの御こと」は「何かおぼし嘆くべき」(どうして心配なさることがあろうか)と述べている点である。これは、つまり、八の宮が、姫君たちのことが心配だから山荘に帰りたいということを申し出たことを表しているであろう。

これは間違いのないことで、阿闍梨は、八の宮に、

今さらに、な出でたまひそ

(こうなったら、けっして山をお下りになってはなりませぬ)

と戒めているのである。これは、逆に言えば、八の宮が、山荘に戻らねばならぬ、と必死であったことを表している。八の宮は、なぜこれほどまでも帰ろうとしたのか、たんなる娘恋しさのことであったのか、むろん、それもなかったとは言えぬが、おそらく八の宮は、このまま死ぬわけにはいかぬと思ったのではないか。

それは、先の、いわゆる「八の宮の遺言」の中身である。要は、「ここに世を尽くしてむと思ひとりたまへ」(ここで一生を終わるのだと覚悟を決めなされよ)と、宇治を離れるなとは言うものの、自身の死後、姫君たちの生活については何も触れていないのであった。それどころか、その遺言の前半で、「また見譲る人もなく、心細げなる御ありさまどもを、うち捨ててむがいみじきこと」(また後のお世話をお願いできるような人もなく、心細いご様子のお二人を、見捨てて行くことがまことに辛いこと)と、姫君たちの生活については薫に後見を頼んだとは、一切話していないことが分かるのである。

八の宮は、薫に世話を頼んだ旨は、やはり、言い遺しておくべきであったと、私は思う。薫は、すでに姫宮たちを「領じたる心地しけり」(もう自分のものという気がするのだった)という思いに至っているのである。何も知らされていない姫君たちの心情とは、当然齟齬が生ずるに違いないであろう。



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