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王朝文学文化研究会 


文学文化舎



-源氏物語講話-

第33回
日本紀などは、ただかたそばぞかし」―「螢」巻の「物語」論(二)


official-storyと高度なentertainment-story

「日本紀」が「かたそば」である、というような考え方には、たとえば、太平洋戦争時における「大本営発表」などと同質のものがあるかも知れない。つまりは、真実を伝えていないということになるのだが、ただ、「かたそば」という言葉からは、真実のすべては伝えていない、という印象が強い。むろん、「大本営発表」も、すべてがまるっきり嘘だったということではないだろうから、まあ、このような国家が制作するところのもの(official-story)は、ことの軽重はともかくとして、いつの時代でも変わらない性質があるのかも知れない。

ただし、「日本紀などは、ただかたそばぞかし」という言葉の後には、「これらにこそ道々しくくはしきことはあらめ」という言葉が続いている。「これら」とは、「物語」のことであって、ここには、「物語」が「日本紀」よりも優位性を持つものという認識が示されているとも言えよう。「道々し」について、『日本国語大辞典』は、次のように言う。

道理にかなっている。学問的である。また、理屈っぽい。

※帚木「おほやけに仕うまつるべき、みちみちしきことを教へて」

当該辞典は「帚木」巻の用例を挙げているが、むろん、この「螢」巻の用例と変わらない。道理にかなうとは、単純に言えば、正しいということで、そういう性質が「日本紀」よりも「物語」の方が優位であるというのである。

すでに述べたように、このことは、明らかに当時の物語一般の在り方とは矛盾するか、あるいは大きく乖離している。紫式部のこの認識に至る根拠とは何か、ということなのだが、これは、結論から言えば、『源氏物語』そのものであると考えるほかはないのではないか。

むろん、紫式部は、「日本紀」に対抗して、別の新しい「歴史書」を『源氏物語』として世に遺そうとしたわけではない。そもそも『源氏物語』の時代設定は、「六国史」と重なるものではないことは言うまでもない。言うなれば、『源氏物語』は、当時の「物語一般」へのアンチテーゼとして制作されたのである。つまり、『源氏物語』は「嘘八百」の物語ではない、という高らかな宣言でもあった。

つまり、紫式部が追求し作り上げた物語―『源氏物語』は、人の世とそこに生きる人々の真実の姿を書き留めたもの、ということなのであるが、物語作者としての紫式部は、そこに、高度なentertainment-storyとしての手法を確立したのである。その手法こそが、

日本紀などは、ただかたそばぞかし、これらにこそ道々しくくはしきことはあらめ

という認識に基づく物語の制作手法なのであった。


この物語を正しく読めば容易に理解されることだが、作者は、主人公のみならず、登場する人物たちの真実の姿を追求する。その最たる事例として、主人公光源氏の隠された「影」の姿(「帚木三帖」や「玉鬘物語」でのあり方など)を暴露するに至るが、それが「真実」である以上、彼の「嘘」ではない物語を制作するためには、ぜひとも描かないわけにはいかなかったのである。

そして、さらに言うならば、「日本紀などは、ただかたそばぞかし、」に直接関わってくることではあるが、光源氏と藤壺との間に生まれた冷泉帝の姿がある。冷泉帝は、即位後、夜居の僧都によって、自身の出生の秘密(密通の子)を知るに至るが、その時、冷泉帝は自身の進退を決定すべく「さまざまの書ども」を読むのである。しかし、彼が得た結論は、次のように書かれる。

日の本には、さらにご覧じ得るところなし。たとひあらむにても、かやうに忍びたらむことをば、いかでか伝へ知るやうのあらむとする

(この日本では、密通の結果生まれたものが帝位についた例は見出すことがお出来になれなかった。たとえあったとしても、こうした秘されたことは、どうして後世の人間が伝え知ることができようか)

この冷泉帝の苦渋に満ちた思慮には、まさに「日本紀などは、ただかたそばぞかし」という最大の事例が反映されていると言えよう。そこには、official-storyである「日本紀」の限界と、それを鮮やかに覆すことで、深く隠されたところの真相を暴露するという面白さ―高度なentertainment-storyの完成があったのである。

この稿続く

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