河地修ホームページ Kawaji Osamu
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王朝文学文化研究会 


文学文化舎



-源氏物語講話-

第28回
大い君の死について(十六)


八の宮の狼狽―「人の親の心は闇にあらねども」

八の宮が死去したこの年は、「重くつつしみたまふべき年なりけり」(重く身をお慎みにならねばならぬ年なのであった)とあったように、八の宮は六十一歳の厄年と見るのが妥当である。この年になると、厄年という観点でなくとも、充分に死期というものを意識する年齢ではあったろう。それでなくとも、仏道に没入する人間の思いは、日々無常であることの頓悟であり、八の宮の場合、いつ訪れるとも知れぬ死に対する覚悟というものはあったであろう。

しかし、その死に直面した八の宮は、あきらかに、狼狽したかに見える。それが人間というものの真の姿だと言えば、むろん、そのとおりであって、八の宮は、ついに死の直前まで、姫君たちの行く末を案じる一人の父親であったということになる。それは、この物語で繰り返し発せられた、

「人の親の心は闇にあらねども子を思ふ道にまどひぬるかな

(人の親の心は闇夜ではないけれども、我が子を思うがゆえに、分別も何もなくなって、わけもわからなくなってしまうことだ)

というテーマそのものであり、さらに言えば、「若菜」巻頭から造型された朱雀院の父親としての苦悩と同一のものであった。そして、八の宮の場合、それは、姫君たちの行く末がどうなるかわからない、というような漠然とした不安というよりも、確実な予想としての、落魄の姿であったろう。もっとわかりやすく言えば、この先どうやって食べてゆくのか、というなんとも生々しい予想であったに違いない。

だからこそ、八の宮は、薫に、その後見を依頼したのではあったが、しかし、ついに、後見の裏付けとなる具体的な「婚姻」を持ち出すことはなかったのである。なぜ、八の宮は、娘の将来を案ずる父親として、薫に「婿」となるよう懇願しなかったのか。

すでに指摘したことだが、八の宮の薫に対する評価は、「まめ人」ということがあった。八の宮は、薫に対して、

同じうは近きゆかりにて見まほしげなるを、さしも思ひ寄るまじかめり

(どうせなら親しく姫君たちの婿にしたいようなお人柄だが、そんなことなど考えてもみようとはしないようだ)

と思うくだりがあった。八の宮の薫に対する評価は、一貫して仏道に邁進する「まめ人」だったようである。薫には、女を娶る―結婚する気がないのではないか、という先入観が働いたのであった。たしかに、薫は、生身の女に対する欲望はやや希薄であったかと思われる。しかし、だからといって、薫という人間が、それこそ判で押したように、そういう人間として生き続けるということは人間としてのリアリティーに欠けることである。

あるいはまた、八の宮には、「宮家」としての誇りが、その言動に縛りを与えることになったのかもわからない。それこそ、背に腹は替えられぬ、という危機的状況に至っても、そこからなかなか踏み出せずにいるのは、今なお宮を苦しめる「宮家」としての誇りというものであったろう。八の宮から婚姻の話を持ち出すということは、いわば、娘を妻に差し出すから生活の面倒を見てくれ、ということでもあり、さすがにそれは積極的には言い出しにくかったのではあるまいか。


「女はらから」との婚姻

しかしながら、八の宮は、自身の死後のことを考えざるを得ない。そのかぎを握るのが薫であるとすれば、「人の親の心」のまま、それこそなりふり構わずに薫との婚姻に向けて、手を尽くすべきではなかったかと思うが、しかし、いろいろな意味において、八の宮は、その現実的処理を怠ったと言わざるを得ない。むろん、薫自身からの具体的かつ明確な求婚がなかったことも、その要因としては指摘できよう。

それにしても、現実問題としてこのように「こと」が進まなかったのは、実は、「橋姫」巻から開始された物語としての宿命的構造にあったのではなかろうか。それは、「橋姫」巻からのヒロインが、「姉妹」(大い君・中の君)として設定されていたということが指摘できる。考えてみれば、「姉妹」と「薫」との婚姻は、もともと用意されるはずのものではなかったのである。ここで言う「姉妹」と「薫」との婚姻とは、文字どおり、薫が二人の「姉妹」を妻にするということであり、考えてみれば、そのようなことは、現実的にはあり得ない話であった。

「橋姫」巻からのモチーフに戻ってみよう。作者は、「橋姫」巻の開始にあたって、『伊勢物語』「初段」を典拠としたことは言うまでもない。そして「初段」のヒロインは、「女はらから」(姉妹)であった。この姉妹は、常識的に考えるならば、「二人」であろう。この「二人」の姉妹が、「昔、男」に垣間見され求愛されたのである。その結末は書かれてはいないが、ともかく、「初段」の「昔、男」が、「女はらから」を「垣間見」し、求愛したことは確かなことである。この「女はらから」が、「橋姫」巻での「大い君」と「中の君」であったことは動かないのである。

つまり、「橋姫」巻において『伊勢物語』「初段」を典拠とする物語が開始された以上、主人公薫の相手役は、最初から「姉妹」となることが示唆されていたと言えるのである。思えば、八の宮の山寺参籠直前の場面、薫が、「領じたるここちしけり」(もう自分のものという気がするのだった)との感慨が語られたが、実は、その対象は「姫君たち」のうち、そのどちらとも書かれてはいなかった。薫は、「姉妹」はもう自分のもの、という傲岸にも近い気持に陥ったのであった。しかしながら、「女はらから」(姉妹)=「大い君・中の君」との結婚、というようなことは、現実問題としては到底あり得ないことであった。

この物語は『伊勢物語』「初段」に依拠しつつも、ここで登場する主人公たちは、自らが置かれたところの世界を、生身の人間として生きてゆかねばならない。そういうリアリティー溢れる物語として制作されている、と言うべきであろう。

この稿続く

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