河地修ホームページ Kawaji Osamu
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王朝文学文化研究会 


文学文化舎


講義余話

紀貫之の墓

 

貫之の墓は、比叡山延暦寺東塔から、坂本側に少し下がった"裳立山(もたてやま)"にある。叡山鉄道の東塔"延暦寺駅"をケーブルで1分ほど下がった"もたて山"という駅が、最寄りの駅になる。

 

貫之の墓は二度目だが、最初に訪れた時は、八月中旬の、ことのほか暑い日だった。

延暦寺駅の券売機で"もたて山"までの往復切符を購入しようとしたが、ない。よく見ると「ケーブル坂本駅以外は窓口で」と書いてある。発車5分前になっても開かない窓口で駅員を呼び、そのことを告げると、駅員は、

えっ?"もたて山"に行きますか?

と怪訝そうに言う。そこに「駅」を設置している以上、「行きますか?」もないものだが、その後、さらに、驚くことに、

乗るときは、5分前にホームのインターホンで知らせてください

と言う。普通はそのまま通過するのだそうで、実は、ホームで人を見ても、ケーブルカーは、その構造上の問題から止まることができないというのである。とにかく、ほとんど人が乗り降りしない"駅"であることだけは確かだ。

 

今回は、王朝文学文化研究会のメンバーと一緒である。予想どおり"もたて山"で降りたのは、我々だけであった。山の中に止まるというだけの駅だが、ホーム横には、

土佐日記作者 土佐の国司紀貫之の墳墓所在地 これより500M先

と書かれた立派な標識がある。おそらくは、この墓参のためのみに設置された駅ではあるまいか―。

 

もたて山駅

ケーブル"もたて山"駅にて

 

 

 

 

 

 

 

 

墳墓までは歩きにくい道ではないが、なにせ比叡の山道である。山中を旅する"心許なさ"とはこのようなものか、と古(いにしえ)に思いを馳せながら、早足で歩くことおよそ15分、裳立山の頂上付近と思われるやや開けた辺りに、貫之の墓はある。

 

そこには、古びた小振りの石柱が、それよりもさらに小振りな地蔵(?)のような石仏とともに、据えられている。

裏面の碑文によると、明治元年(1868)「九月十有八日」の日付があるので、明治に改元(1868年9月8日)した直後ということになる。墓石の前面には、

木工頭紀貫之朝臣之墳

と刻まれているだけで、実にあっさりとしたものである。

 

紀貫之の墓

 

紀貫之の墓。

 

 

 

「木工頭(もくのかみ)」とは、「木工寮」の長官ということで、相当の位階は"従五位上"、貫之としては、最晩年の"極官"であった。

ただし、正確に言えば、貫之は「従五位上・木工権頭」で没した。つまり「権頭(ごんのかみ)」と「権」が付くのである。「権」とは"仮"もしくは"特別"といった意味で、「権大納言」や「権守」などのケースが多い。

 

この場合の「木工権頭」と「木工頭」との違いが難しい。正式な職位が「木工頭」であるのはわかるが、「権」を付けるとどうなるのか―、このあたりの事情について、古代史がご専門の森公章博士(東洋大学文学部教授)に伺ったところ、「権」も正当な役職と考えていいそうで、臨時に設けられたもう一つのポストではあるが、ほぼ藤原頼通の時代までは、名誉職的な性質のものではなかったらしい。つまり、官職としての「木工頭」の実質があったわけで、当然それに伴う待遇的措置は保証されていた、ということであった。

 

このことは、貫之がこの官職に着任した当時、正規の「木工頭」のポストはすでに塞がっていたが、貫之への何らかの報償的な意味合いから「権頭」のポストが与えられたと考えていい。

そう考えるならば、このことは、貫之という人物に対しての、特別な"配慮"を示した人事と言えなくもない。これを、『古今集』編纂を始めとする和歌分野に於ける貫之への顕彰と評価の一環と考えることができるならば、後世の我々にとっては、何やらほっとするようなできごとであるには違いない。

ところで、なぜ"ここ"なんでしょうか?

と、一行の一人がつぶやいたのだが、そのとおりで、そこにある解説板には、貫之が比叡山からの琵琶湖の風景を愛でたということは書かれているものの、なぜ裳立山の"ここ"なのかはわからない。

明治元年のことではあるが、あるいは、代々の「紀氏」の中で、貫之の墳墓についての記憶が、伝承として継承されていたのかもわからない。

 

「紀氏」は、むろん、今日も続いている名門である。

もうかなり前の話になるが、知人の「紀(きの)」さん(紀氏一門、女性である)から聞いたことには、一門は数年に一度は集まるらしい。その時、私が、

集まって、何をやるんですか?

と聞くと、当の紀さんは、やや不機嫌そうな表情から、目を細め、一瞬遠くを見つめる風情を見せたかと思うと、

オノレ、フジワラ~、の"儀式"をやるのです…、

と、凄みをきかせた声で呟いたことが、おかしかった。あまりにおかしかったので、その時のことは、それ以来、あらためて聞かないようにしているのだが、確かに「紀氏」にすれば、王朝史は「おのれ、藤原~、」の歴史ではあった。が、このことは今は措く。

 

さて、現実の貫之の墓である。その周りには、高知県南国市からの墓参団の記念碑が複数設置されている。

それらの記念碑は、ほぼ5年から10年置きに設置されたもので、南国市が、いかに紀貫之を敬慕しているかがわかるというものである。そう言えば、"もたて山"の駅に設置されている貫之墳墓への案内柱の片面には、

平成15年11月 土佐日記発祥の地 高知県 

とあり、その下に、設置主体として、「南国市」「南国市商工会」「南国市観光協会」「国府史跡保存会」の各団体名が、横並びに記されている。南国市を挙げての墓参、と言うほかはない。

 

高知県南国市からの記念碑

高知県南国市からの墓参の記念碑が並ぶ。

 

 

 

 

 

 

かつて、延長8年(930)土佐守として海を隔てた土佐国に赴任した貫之であったが、『土佐日記』によれば、離任の時(934)、多くの国人が別れを惜しんだという。そして、平成の今、その赴任先であった土佐国の子孫たちが、遙か時を隔てて、貫之の墓に墓参している。

 

貫之にとって「土佐」とはいかなる土地であったのか―。そして、土佐にとって、「貫之」とはいかなる存在であったのか―。

『土佐日記』という作品の性質の解明を含めて、我々は、今一度、これらのことについて、真剣に考えるべき時を迎えている。

 

次はいよいよ、貫之の赴任先、「土佐」の地を訪ねてみなくてはなるまい。