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王朝文学文化研究会 


文学文化舎


講義余話

多胡碑と多賀城碑

現在の群馬県高崎市吉井町にある「多胡碑」を初めて訪ねたのは、この地に引っ越した平成2年(1990)の春だったように思う。当時は群馬県多野郡吉井町であった。もう20年も前のことになるが、案内などもなく、そこに辿り着くまでずいぶん苦労したような記憶がある。

碑文の内容は、中央政府からの通達により、和銅4年(711)「多胡郡」が誕生したことを宣言するもので、一言で言えば、“建郡のよろこび”を表したもの である。それによると、上野国(現在の群馬県)内の片岡郡、緑野郡、甘楽郡からそれぞれ「戸」を供出して300戸となし、あらたに「多胡郡」を設置したと いうのである。「戸」とは、律令制における地方行政組織の末端の単位であり、農民を管理する戸籍の実態と言っていいものである。これらを既存の3郡から 300戸を割愛したというのであるから、711年当時、さらに、既存3郡の存在からしても、そのかなり前から、中央政府(大和朝廷)が上野国を直接的に管理掌握していたことを物語っている。すなわち、古代中央集権の形態が当時すでにこの地に及んでいたことを物語る、当該地における第一級資料と言えるのであ る。

さらに、この多胡碑の碑文には「羊」と呼ばれる氏族(人物)にこの地を統治させたとある。この「羊」が渡来人であることは今日定説であ り、この地が渡来人の拠点として機能していたことがわかるのである。たとえば、そもそも新郡の名称としての「多胡」とは、「胡多し」ということで、「胡」とは「外国」という意味であることは言うまでもない。また、多胡郡の西に隣接する「甘楽郡」も、その「カンラ」という音からして明らかに渡来人の拠点で あったことを物語っている。古代日本が朝鮮半島からの多くの渡来人を受け入れていることは自明のことであるが、東国の「上野国」にまで、その痕跡が明確に残されていることに、我々は思いを致すべきであろう。

この多胡碑は「日本三古碑」の一つに数えられるものであるが、宮城県多賀城市にある「多賀城碑」もその三古碑の仲間である。端正な書体による碑文には、神亀元年(724)に多賀城が設置されたこと、さらに、天平宝字6年(762)に多賀城が修復され、その記念碑として多賀城碑が建立されたことなどが刻まれている。

多賀城とは、もと多賀柵とも言われた蝦夷掃討戦争の最前線基地であった。中央集権国家の確立に向けて、大和朝廷が最重点項目に掲げたのが東国経営であった が、その障壁となる東北地方の敵対勢力一掃のために、強力な軍事拠点が必要だったのである。その代表的な砦(柵)が多賀城だったのであり、いわば、この多賀城は、古代大和朝廷の中央集権国家作りの明確な痕跡として位置づけることが可能なのである。

私が多賀城を初めて訪れたのは、平成10年(1998)12月のことであった。多賀城碑と多賀城跡に到着したのは、すでに夕闇の迫る時刻であった。私は、この時の印象を今でも鮮烈に覚えている。暮れゆく多賀城跡に佇みながら、多賀城の礎石群から、あきらかにそれが、東北に居る蝦夷に向かうのではなく、都の ある西南に向かって立てられていることに気付いたとき、多賀城碑の碑面上部の正面に高らかに刻まれている「西」という文字の謎が氷解したような気がしたのである。そうだ、彼らは大和朝廷から遠く派遣された軍人たちに他ならなかったのだと-。大和朝廷の人々にとって、陸奥はかくも心細い辺境の土地に他ならな かったのだ。碑文の冒頭、「去京一千五百里」と記したのは、この地と大和とがいかに隔絶した世界であったかを物語るものであろう。古代東北とは、大和の人 々にとってそういう土地だったのである。しかし、この土地の制圧なくして、新しい中央集権国家の確立もまたなかったのである。

多賀城碑は長く土中に埋もれていたが、江戸時代後期に発掘された。その情報に触れた松尾芭蕉が『おくの細道』の旅(元禄4年、1691)で、そこを訪れたことは作品中にも記されているが、芭蕉は、多賀城碑を訪れたときの感動を、次のように書き残している。

山崩れ川流れて道あらたまり、石は埋れて土にかくれ、木は老いて若木にかはれば、時移り代変じて、その跡たしかならぬことのみを、ここに至りて疑ひなき千載の記念(かたみ)、今眼前に古人の心を閲す。行脚の一徳、存命の悦び、羇旅の労を忘れて、泪も落つるばかりなり。