河地修ホームページ Kawaji Osamu
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王朝文学文化研究会 


文学文化舎


講義余話

―物語の原点を考える(1)―
「ものがたり」の語義

平安時代の「ものがたり」の語義は、意外に思うかもしれないが、今言うところの「おしゃべり」という意味だと断定していい。専門家は平安時代語を中古語と云うことが多いが、中古語の語彙体系は、膨大な規模を持つ『源氏物語』から容易に組み立てることができる。たとえば、その『源氏物語』の中での「ものがたり」という語の語義と使用例が、『源氏物語事典』(東京堂出版・池田亀鑑編)の中で報告されているが、それによると、『源氏物語』中、「ものがたり」なる語は百八十九例認められ、その内訳として、次のように報告されている。
    ①  話、談話、四方山話。広く口頭の話一般をさしていう(百六十九例)。
    ②  物語文学(十五例)。
    ③  乳児が意味不明の声を出すこと(四例)。

これによると、圧倒的に多数を占めるのが①の「話、談話、四方山話。広く口頭の話一般をさしていう」で、全体の約九割を占めていることがわかる。これはいわゆる「おしゃべり」ということである。また、③の「乳児が意味不明の声を出すこと」についても、よく考えてみれば「おしゃべり」ということで、今でも母親が、赤ちゃんが声を発する行為を「おしゃべり」と言っていることから見ても自明のことだろう。とすれば、「ものがたり」という語は「物語文学」という意味のものがあるにしても、そのほとんど九割以上が実に「おしゃべり」という意味を持つ語だということがわかるのである。

このように、「ものがたり」は「おしゃべり」という語義と「物語文学」という語義と、相対する二通りの語義を有する語だと言っていいのだが、ただ圧倒的に「おしゃべり」の語義が多いということに顧慮しなければならないだろう。この言葉は、基本的に「おしゃべり」ということでその本質を考えていかなくてはならない言葉なのだ。

「生活文化としての「おしゃべり」

「ものがたり」=「おしゃべり」の現場とは、どのようなところを想定すればいいのだろうか。これは実は現在でも同じであって、生活文化の場、ということになるだろう。そして、ここで問題としたいのは、最上流貴族の女性たちの生活の現場ということなのだ。

九世紀、平安時代になってから宮中の後宮が拡大し、后たちの出身母体の氏族も天皇とのミウチ政治を確立すべく権力の頂点を目指していった。いわゆる摂関政治の始まりである。権門勢家の姫君たちは、寝殿造りと呼ばれる邸宅の中に、半ば閉ざされるように暮らしていったのだ。その生活ぶりは、想像するだけでも、窮屈で退屈極まりないことだっただろう。外出はもちろん、庭に出ることさえ困難な状況だった。いつの時代でも同じだが、高貴な身分の人々には、その与えられる特権と引き換えに自由というものが奪われていくのだ。

このような生活を強いられる姫君たちの楽しみとは何だったのだろうか。『枕草子』の「つれづれ慰むもの」として、「碁、双六、物語」が挙げられているが、室内遊戯などは大いに楽しめたことだろう。現在でもゲームや読書は退屈を慰めてくれる。しかし、最高に楽しいのは、たとえば仲のいい友だちとの「おしゃべり」ではないだろうか。

当時の姫君たちには「女房」と呼ばれる侍女が影のように傍にいた。また一番の友だちは、自分を育ててくれた乳母の子、いわゆる「乳母子」と呼ばれる同年輩の女房だったと思われる。高貴な姫君たちにとって、そういった乳母子や女房たちとの間で交わされるおしゃべりほど楽しいものはなかったのではないだろうか。

女房たちは、ほとんどが中流階級の出身であった。彼女たちは、世間のことをよく知っていたのである。深窓で育った姫君たちとは比較にならぬほどの知識と情報を身に付けていたのだ。そして、都のことだけではなく地方のことにも精通していたはずだ。なぜなら、中流階級の貴族は、受領層とも呼ばれるように、地方官として地方に赴任する階層でもあったからである。たとえば、紫式部や清少納言も、若い頃、父親とともに地方へ下った経験を持つのがいい例であろう。姫君におもしろい話題を提供する女房には、広い教養と情報収集能力、そして巧みな話術が必要だったのである。


―物語の原点を考える(2)―
おもしろい話(おしゃべり)が仮名になる―文芸としての物語の誕生―

九世紀後半から十世紀初頭にかけて、女性たちの間で、主に和歌を対象とする仮名表記が盛んになってきた。仮名とは言うまでもなく、漢字を崩したもので、その漢字音を当時の音に当てて表記したものである。この手法の発達により、当時の話し言葉が書き言葉として置き換えられるようになったのだ。いわゆる言文一致の一形態といっていい。

権門勢家の女性たちの世界で日常的に繰り広げられるおもしろい話(おしゃべり)は、女房たちによって広く家々に伝播していったことだろう。伝承の世界だ。こうした話がやがて当時隆盛した仮名に置き換えられ、文芸のかたちになっていったのが、物語文芸なのである。そして、意欲的で優秀な女房は、ついに仮名で自ら話を創作していったことであろう。すなわち、物語作家の誕生だ。作られた物語は姫君を対象として読み上げられることになった。つまり、「おしゃべりの台本」のようなものだ。女房が読み、姫君が聞く、興味深い話の内容に耳を傾ける姫君たちの姿は、現在の母親から話をせがむ幼児のようなものである。人間の文化は、いつの時代でも変わらない。

十世紀後半に成立した三宝絵詞という書物がある。そのなかで、当時の物語についての叙述があり、「物語」は数え切れないほど無数にあった、主人公は人間以外のもので、そういうものに名をつけ、言葉や心を与えている、だから誠がない、嘘だと言っているのだが、これなどを読むと、まさに当時の物語とは、現代の児童文学そのものであることに気づくだろう。また、むろん人間が主人公の物語もあったが、それらは理想的で夢のような恋の話だと言っている。すこしおませになった姫君は、素敵な恋の話に憧れたのである。

権門勢家の姫君は、やがて話だけでは満足することができなくなります。話の内容が絵になっていたらどんなに楽しいことだろう。我々も、幼児のときは絵本に夢中になったものだ。人類の文化史で言えば、ドラマが音声だけのラジオから、やがて映像を伴う映画やテレビになっていったようなものである。姫君たちのために、その家では絵画が制作されるようになった。これがいわゆる「物語絵」とか、「絵物語」とか呼ばれているものである。もちろん、貧しい人々とは無縁のことで、平和で富が無ければ、このようなことはあり得ない。平安朝の、絵画を含む物語文化は上流の貴族階層に限定されたものだったのである。

もちろん、おもしろい話は、誰でも楽しむことができる。貧しい庶民の間には、絵や仮名を伴わない、純粋のハナシが伝承していった。これが、いわゆる口承文芸、そして、地方にまで伝播していった昔話というものなのである。だから、現在残っている「遠野の昔話」などは、その根っこは物語文芸と変わらない。また、広く中流の貴族階層などでは、絵は無理だったが、仮名の台本の方は書写が可能だった。更級日記の作者が、念願の源氏物語の写本を手に入れたことなどがいい例だ。今日文芸として残っている物語は、絵画が消失したかたちの物語と考えていい。

物語文化の流れ