河地修ホームページ Kawaji Osamu
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王朝文学文化研究会 


文学文化舎



講義余話

『古今和歌集』のメッセージ(三)

 

和歌は天皇とともにあった―『萬葉集』「巻第一」の本質

「巻第一」の構成上の特色は、歴史上の「天皇代」のもとに、和歌が整然とまとめられていることであろう。すべての天皇というわけではないが、正しく時代順に並べられている。「巻第一」に掲げられている「天皇代」を、収録されている歌数とともに掲げてみよう。

 

『泊瀬朝倉宮御宇天皇代(雄略天皇・1)
高市岡本宮御宇天皇代(舒明天皇・5)
明日香川原宮御宇天皇代(皇極天皇・1)
後岡本宮御宇天皇代(斉明天皇・8)
近江國大津宮御宇天皇代(天智天皇・6)
明日香清御原宮御宇天皇代(天武天皇・6)
藤原宮御宇天皇代(持統、文武天皇・56)
寧楽宮(710年・1)

 

「泊瀬朝倉宮御宇天皇代(はつせあさくらのみやにあめのしたしらしめししすめらみことのみよ)」とは、『日本書紀』で言う第21代の雄略天皇の御代ということで、雄略は、いわゆる「倭の五王」の一人「武」に比定されることで知られている。その時代は、ほぼ五世紀の後半と見ていいだろう。朝鮮半島や中国大陸と濃密な関係があった時代で、当時の倭国は、当然のことながら、強力な大陸の文明圏に属していた。この時代に、あるいは、人々が歌を発していたとするならば、後の定型の歌謡などではなく、無定型のものだったに相違ない。そういう意味では、巻頭の雄略天皇御製は、内容については後に触れるとして、形態は無定型のさほど長くはない「長歌」であり、まさに、揺籃期の歌としてふさわしいものと言えるだろう。

「高市岡本宮御宇天皇代(たけちおかもとのみやにあめのしたしらしめししすめらみことのみよ)」とは、舒明天皇の御代ということで、この時代の歌は、合計5首が収録されている。舒明天皇は、629年~641年に在位した天皇で、中大兄皇子(天智天皇)、大海人皇子(天武天皇)の父親である。そういう意味では、この国の中央集権国家の黎明期の天皇として位置付けることが可能である。

次の「明日香川原宮御宇天皇代(あすかかわはらのみやにあめのしたしらしめししすめらみことのみよ)」と「後岡本宮御宇天皇代(のちのおかもとのみやにあめのしたしらしめししすめらみことのみよ)」は、「皇極天皇」「斉明天皇」の時代ということになるが、この「皇極天皇」「斉明天皇」は同一人物である。皇極天皇は、夫である舒明天皇の没後、642年に即位した。そして、645年、弟の孝徳天皇に譲位したが、その没後、655年に再び即位(重祚)したのが斉明天皇である。斉明は、661年、百済救援軍を自ら率いて遠征中、九州の筑紫朝倉宮で病没した。その後、668年までは、中大兄皇子(天智天皇)が「称制」を敷いて指揮を執ったことはよく知られている。

この皇極、孝徳、斉明天皇、さらに中大兄皇子の称制時代までを含めて、通年で記せば、642年~668年までとなる。この間の白村江の戦い(663年)、さらに、大津宮遷都(667年)と、この時代は、我が国初の中央集権国家の誕生にともない、当時沸点に達するほどの厳しさを増していた国際社会(東アジア)情勢への正面からの対峙を余儀なくされた、まさに激動の時代であったと言うことができる。

そして「近江國大津宮御宇天皇代(あふみのくにおほつのみやにあめのしたしらしめししすめらみことのみよ)」とは、天智天皇の御代である。斉明天皇崩御後、称制を行っていた中大兄皇子が大津宮に遷都(667年)して即位、その崩御直後の壬申の乱(672年)によって大津が灰燼に帰すまでの時代を言う。後世から見ると、大津宮時代は短期間で、さほど注目されないように思われるが、しかし、大和の朝廷が、「大和ならざる」琵琶湖畔の大津に遷るという事態は、実に尋常ならざることであった。大津宮時代の和歌は、合計で6首収められているが、斉明天皇時代を含めて、額田王が大いに活躍した時代としても注目される。

「明日香清御原宮御宇天皇代(あすかきよみはらのみやにあめのしたしらしめししすめらみことのみよ)」は、壬申の乱後、勝利した大海皇子率いる大和朝廷が、再び大和の飛鳥に帰った時代であった。大津の地が灰燼に帰したのであるから、大和朝廷がもとの拠点(故郷)に戻るのは当然のことであった。が、この地(明日香清御原宮)で即位した天皇は、烈しい内戦に勝利した天武天皇であったから、その結果として確立された英雄的権力により、大化改新以来の中央集権国家作りは、飛躍的に加速した。

「藤原宮御宇天皇代(ふじわらのみやにあめのしたしらしめししすめらみことのみよ)」とは、持統、文武天皇のいわゆる藤原京時代ということになる。天武天皇の崩御を受け、その遺志を引き継いだ皇后持統によって、中央集権国家の完成に向け飛鳥の北方に広がる藤原京の建都が行われたのである。この時代の和歌の数が、他の時代と比して圧倒的に多いのも、歌集(巻第一)成立の時点に近いということもあるが、「藤原宮御宇天皇代」が、天皇を頂点とする中央集権国家の確立の時期であることに起因している。中央集権は、歴史(伝承―『古事記』)までもその対象たり得たように、文化(和歌)もまた、その対象として朝廷に集められたのである。

このように、『萬葉集』「巻第一」に見られる「天皇代」ごとに和歌を時代順に編集する形態は、次の「巻第二」にも基本的に踏襲された。ただし、この「巻第二」編集の時点では、和歌の類別意識というものが発生した。それが「相聞」「挽歌」という部立(ブダテ)であって、この部立意識の成立は、遡って「巻第一」の部立を、あらためて「雑歌」とせざるを得なかったのである。この部立の成立は、和歌に関する人々の意識の進化ということを示しているが、そのことはともかく、「巻第一」の編集意識が、「和歌」は「天皇」とともにあるという強い発信事業であったことは間違いのないことであろう。

このように「巻第一」を分析すれば、この巻が「勅撰」として生まれたとする見方については、それを支持せざるを得ないと思われる。おそらく、後の、和歌に心を寄せる天皇にとって、『萬葉集』「巻第一」は、特別な存在であったに違いない。


 

2020.9.12 河地修

この稿続く
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