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王朝文学文化研究会 


文学文化舎



講義余話

「京都御所」考(一)

 

里内裏(さとだいり)

平成29年王朝研の京都探訪旅行は、初日「京都御所」を取り上げた。宮内庁が管理する京都の主要文化財のうち、京都御所・桂離宮・修学院離宮は、基本的に事前の申し込み制であったが、京都御所だけは、昨年秋から自由参観になったのである。

かなり昔のことだが、参観に当たっては、1ヶ月前までに参観するグループ全員の名簿の提出が求められ、その名簿には、氏名の他に、住所や年齢まで書き込む必要があったことを記憶している。個人情報の保護といったことが、まだ話題にも上らない時代のことであった。

 

行きやすくなったことは、おおいに喜ぶべきことで、今回、王朝研のみなさんに話したところ、ぜひ行きましょう、ということになった。

 

平安時代は、延暦13(794)年に開始されたが、当初、内裏(天皇の御所・朝廷)は、今の場所ではなかった。現在の京都市内、千本丸太町の交差点付近であった。つまり、京都市内を南北に走る「千本通り」が、かつての「朱雀大路」ということになるが、往時の面影は一切ない。今回の探訪は、千本丸太町付近から南に位置していた本来の内裏が、なぜ、京都御所として現在の場所にあるのか、ということを考えることだが、このことのキーワードは、「里内裏」という言葉である。

 

京都御所は、京都盆地の北東から流れてくる高野川と北西から流れてくる賀茂川の合流地点から南西方面の内側に収まっている。つまり、本来の平安京域の東北方面、一条から二条にかけて位置するのである。このあたりは、もとは藤原北家の邸宅が建てられていた。

藤原北家とは、奈良時代、古代中央集権国家作りに尽力した藤原不比等の四人の子息が起こした家(式家・京家・南家・北家)の一つである。奈良時代は、さほど目立つ家ではなかったが、平安初期、嵯峨天皇を支えた冬嗣の時から、ほとんど独壇場となった。

冬嗣は、自分の後継で子息の良房に、嵯峨天皇の皇女、潔姫を迎えた。また、娘の順子を嵯峨の皇子である正良親王(後の仁明天皇)の后とした。その順子が産んだ皇子が道康親王(後の文徳天皇)であり、この時から、基本的に、藤原北家の「氏の長者」が、ほとんど外戚(がいせき)として天皇の後見となってゆくのである。

「外戚」とは、その天皇にとって、母方の親戚ということである。つまりは、その母の実家(里)であった。何時の時代でもそうだが、出産は、母親の実家で行うことが多い。お産にあたって、夫の母親が世話を焼くのと自身の母親が世話を焼くのとでは、出産に伴うストレスが違うのであろう。

平安時代、天皇の后の出産は、后の実家であった。宮中は神を祀る場所でもあるため、出産に伴う穢れ(出血)や死産(死穢)を嫌ったのである。つまり、後の天皇となる皇子は、后である母親の実家で誕生し、さらに、幼少期は、そこで育てられたから、やがて天皇となっても、そこが実家(里)となったのである。

 

 

言うまでもなく、天皇は、即位後は内裏の「清涼殿」で過ごした。譲位後は、上皇御所(後院)で過ごしたから、幼少期の主な思い出は、母の実家(里)にあったであろう。誰もがそうであるように、天皇もまた、時に、自分が生まれ育った家が恋しかったことであろう。望郷の思いは、人にとって普遍的なものであったから、そういう機会が訪れた時、天皇は、その里に行幸(臨幸)もした。

そして、この臨幸が、長期化せざるを得ないことが、平安時代の後期になって、たびたび起こったのである。火災による内裏の消失であった。朝廷の経済力が疲弊してくると、建物の再建もすぐには行われなくなるので、その場合、「臨時の内裏」を設ける必要があったのである。そこで、内裏の建物群と同規模の建物が存在する藤原北家の邸宅が、その機能の代わりを果たしたのであった。ここを臨時の天皇の御所とし、これがいわゆる「里内裏」と呼ばれるようになったのである。

「土御門第跡」の標柱
京都御所内に立つ「土御門第跡」の標柱。土御門邸は藤原道長の邸宅で、彰子が産んだ後一条天皇などの里内裏となった。

 

2017.09.10 河地修

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