河地修ホームページ Kawaji Osamu
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王朝文学文化研究会 


文学文化舎



講義余話

薬子の変と日本文学文化(三)

 

業平は天皇になれたか?

平城上皇が隠棲したあたりは、平城故京の北辺ではなかったかと思われる。今そこには平城天皇の御陵とされる山桃陵がひっそりと佇んでいるが、さらにそこからやや北東側に行ったところに、不退寺がある。

不退寺は、正式には不退転法輪寺、別名「業平寺」とも言うように、在原業平ゆかりの寺である。寺伝によれば、もともとこのあたりに平城上皇所領の荘園があり、その地の隠棲の御所を「萱の御所」と言ったらしい。出家した人にふさわしい趣の御所の名ではあるが、平城所領の荘園は、阿保親王一人が相続したであろう。もう一人の高岳親王は、廃太子後に出家、真如と号して、やがて仏教発祥の地(インド・チベット)を目指し、その途中、現在のラオス辺りで客死したと伝えられるからである(虎害伝説として残っている)。

平城上皇の崩御は天長元年(八二四)であるから、変の後、十四年ほどこの辺りで暮らしたことになる。一方阿保親王は、変に連座して太宰府に流されたが、平城上皇の崩御に伴って、帰京が許された。業平が、桓武の皇女伊都内親王を母として生まれたのはその翌年のことであったから、阿保と伊都内親王との婚姻は、親王帰京直後のことであったに違いない。

不退寺の寺伝によると、阿保親王と業平は、この地で平城上皇の菩提を弔ったらしい。つまり、平城―阿保―業平という流れで、平城太上天皇家は続いていったことになる。このことをごくリアルに考えてみれば、業平は、平城上皇家の資産を相続したということになるのではないか。それがどれほどの規模のものかはわからないが、あるいは、業平が無官の時が長かったとしても、その生活は十分に補償されるほどのものではなかったかと思われる。よくその真偽が問題となる「東下り」も、そういった視点から考えてみるのもおもしろい。

 

暮れなずむ平城故京 暮れなずむ平城故京


 

平城天皇御陵 平城天皇御陵


 

ところで、実証としての史学には「もしも」というような視点はないが、しかし、日本文学文化学には、この「もしも」から導かれる世界が必須となってくる。なぜなら、生身の人間は、自身の遡り得る過去の歴史に関して、「もしも」という仮定の視点を持つと同時に、その仮構世界の中で生きてゆこうとすることがあるからだ。むろん、それは、生涯における彼の行動の原点足り得る思念であろう。

在原業平は、薬子の変が成功していれば(それがなかったとしても)、阿保親王家の御子として誕生し、その後は実際の歴史とは大きく異なる生涯を送ったかもわからない。

今仮に、平城の思惑通り、高岳親王が即位したとしよう。その時は皇太子(皇太弟)を立てねばならないのであり、その場合、高岳親王の兄弟である阿保親王の可能性がなかったわけではない。朝廷内において、引き続き平城の意向が強く働いたとするならば、その兄弟である阿保親王の立太子は、考えられなくもなかったのではないか。天皇の後継の資格は、言うまでもなく「親王」でなければならないから、高岳親王が即位した場合、阿保親王が次の皇位継承者(皇太子)にはなり得たであろう。さらに言えば、次に阿保親王が即位したとしたら、その皇太子には、阿保親王の御子が選ばれることになろう。ということは、すなわち、その場合に想定される人物は、母が「内親王」である業平ということが想像できるという話になるのである。

このように、仮構世界ではあるが、リアルに想像を積み上げていくならば、在原業平は、天皇になるべき人物として措定することが可能なのである。このような系譜を読み解く作業の延長線上に、『伊勢物語』の在原業平の「いろごのみ」としての人物造型が可能となるのである。

そして、さらに厳密に考えてみれば、薬子の変があったからこそ、業平が「在原」という臣籍に誕生した。つまり、薬子の変の日本文学史における意味は大きいのである。『源氏物語』や『伊勢物語』といった本格物語の主人公の「いろごのみ」像は、その絶対的要件が〈天皇になるべき資質〉ということであるが、それは同時に〈臣籍〉でもなければならなかった。このあたりの事情については、『王城の日本文学文化』「物語文化システム論」を参照されたい。

 

不退寺(業平寺)境内 不退寺(業平寺)境内


~『王城の日本文学文化』より~

 

2017.03.09 河地修

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