河地修ホームページ Kawaji Osamu
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王朝文学文化研究会 


文学文化舎


講義余話

上賀茂神社の祭神-雷と豪雨と賀茂川

 

若き神職の英語

上賀茂神社は、京都駅から終点の上賀茂神社前までバスで向かうが、乗車時間がかなり長い。下鴨神社が御所にも近く、市中の気楽な観光スポットであることとは対照的である。昔は、観光客の数も、下鴨と比べるとかなり見劣りしたが、今は違う。平成6(1994)年に世界文化遺産に選定され、そのせいで、いつ行っても観光客で賑わっている。

 

今から3、4年前の夏、王朝文学文化研究会のメンバーと上賀茂に行ったときのことだ。本殿と権殿の有料の特別参拝を申し込んで、みなで建物の上に上がり込んだ。ずいぶん暑い日のことで、そこに設置されている冷房装置に救われた。その中に我々とは別のグループもいて、さらに、明らかに欧米系と思われる外国人観光客の一行もいた。

京都では、外国人観光客の存在はごく日常的な光景であって、別に驚くようなことではないのだが、この日は、上賀茂神社の若い神職さんに驚いた。

本殿・権殿を拝観するポイントで、その神職さんは、神社の由来について解説をしてくれたが、その解説の最後に、興味津々に目を輝かしている外国人に向かって、日本語は分かりますか?、ということを英語で質問したらしい(「らしい」というのは、私の英語反応力がほぼゼロに等しいからに他ならない)。

話しかけられた外国人は、少しはにかんだような笑顔で、小声ではあったが、はっきりと、「ノー」と言い、そこで、その若い神職さんは、我々日本人グループに爽やかな笑顔を向け、「少しお待ちいただけますか」、と言うと、同内容の解説を"英語"で始めたのであった。

その神職さんの英語が上手かったかどうかは、私にはわからないが、とにかく、我々に話してくれた内容を流暢に英語で話し続けたことだけは確かであった。私は、これが「世界遺産」になるということなのだなあ、解説内容を「英訳」して覚えなければならないのだあ、というような感心の仕方をしたのだが、しかし、この"感心"じたいが、大きな間違いであったことに、すぐに気づかざるを得なかった。その若き神職は、解説を終えると、当の外国人に向かって、次のような英語を、実に、にこやかに言い放ったのである。

 

any question?

 

すると、一行の中の外国人女性が、一言二言、何か英語でつぶやいた。神職の青年は、その英語に大きく頷いて、先ほどよりも、さらに情熱的に(私にはそう思えた)、身振り手振りを交えながら、流暢な英語の解説を展開したのであった。

境内に出てから、「いやあ、驚きましたねえ…」と、思わず、同行の会員諸氏に語りかけると、誰もが、口を揃えて、「ええ、英語で解説なさるんですねえ…」、「今や、神主さんも英語ができないと採用されないということなんですかねえ…」、「さすがは世界遺産ですねえ…」と、肝心の上賀茂についての学習そのものは、どこかに吹き飛んでしまったような趣が、実に可笑しかった。

 

賀茂川と賀茂別雷神社

青年神職の英語の解説にも登場するのだが、上賀茂神社の北方に「コーヤマ」(神山)と呼ばれる山がある。「縁起」によると、上賀茂の祭神は、この「神山」に降臨した。その神の名を「賀茂別雷大神(かもわけいかづちのおおかみ)」と言う。従って、この神社の正式名称は、その祭神名から「賀茂別雷神社(かもわけいかづちじんじゃ)」と言うのである。

「賀茂別雷大神」とは、文字どおり、「賀茂」の「雷神」ということであろう。はるか昔、「神山」に神が降臨したということなのだが、その時はおそらく、天地を轟かすほどの"落雷"でもあったものかと想像したくもなるが、このような気象現象じたいは、基本的に今も変わらない。

京都盆地の夏は、言うまでもなく暑い。盆地に溜まる多量の水分が夏の太陽に熱せられると、そのまま上昇気流となって盆地北部の山間部へと流れ、それが積乱雲を作って雨を降らすのである。

このメカニズムが程よく推移していくとき、"雷"とそれに伴う"降雨"は、まさに"自然の恵み"としての"五穀豊穣"を保証し、人々の暮らしに多大の恩恵を与えるのである。しかし、このバランスが大きく崩れると、自然は恐ろしいほどの牙をむき、人々の暮らしを破壊する。

遥か昔、北山からの河川が京都盆地を真南に流れていた時代は、治水もままならず、豪雨のたびに、流域は氾濫による洪水に見舞われたものと思われる。しかし、加茂氏によって、賀茂川の流れが南東に付け替えられてからは、おそらく、その流れは、以前よりも格段に穏やかになったに違いない。

しかし、言うまでもないことだが、自然は、時として容赦なく荒れ狂う。北山周辺の豪雨は、時に、想像を絶するほどの水量となって、賀茂川に注ぐのである。その時、上賀茂周辺から真南に河川が決壊しては、京都盆地は壊滅的な打撃を被るであろう。人為ではどうにもならぬ自然の猛威に対しては、人はついには"神"に頼るしか方法がなかった。その昔、加茂氏が、「賀茂別雷大神」をこの土地に祀り、「賀茂別雷神社」を創建したのは、京都盆地特有の風土的事情に基づくものと言っていいい。

 

ところで、加茂氏が賀茂川を付け替えたのは、いつの時点だったのだろうか。もともと、この方向を流れていたという説もあるぐらいだから、あるいは、それは、かなりの昔のことと見ていいのかもしれない。たとえば、『大日本読史地図』は、平安京遷都(794)に合わせて、という解釈を採っているようであるが、あるいは、加茂氏の、山城盆地開墾事業の一環として行われたものかもしれず、だとすれば、山城盆地そのものは、早くから都城(都市ということである)を築くだけの条件は満たしていたということになる。

話は跳ぶが、平安時代後期の白河天皇(1053-1129)が、心にかなわぬものの例として、"賀茂川の水""双六の賽""山法師(比叡山の僧兵)"を挙げたことは有名なエピソードである(平家物語巻一)。このことは、平安京歴代の為政者にとって、その政治の最重要項目の一つに、盆地を流れる河川の治水事業があったことを示している。

この治水事業は、むろん、護岸工事などの河川の維持管理を指しているが、しかし、なんといっても相手が大自然であるがために、人為による土木技術には限界があった。とすれば、あとは、神に祈るという行為を国家の儀式に組み込むことが、時の為政者には求められた。

 

794年、大和朝廷は、山城盆地に遷った。そして、810年のことだが、いわゆる薬子の変で平城上皇に勝利した嵯峨天皇は、自らの娘である有智子内親王を、賀茂神社の「斎王」(斎院)として差し出し、「賀茂」の「神」への祈りを国家の儀式ともした。

山城盆地が本格的な雨期を迎える前の初夏、"雷"の神である「賀茂別雷大神」を公式に祀ることで、山城盆地の平安と五穀豊穣を祈る儀式が、国家として強く求められたのである。この儀式が、賀茂別雷神社の例祭であり、今日「葵祭」と呼ばれるものであることは言うまでもない。