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王朝文学文化研究会 


文学文化舎



『古今和歌集』を考える

『古今和歌集』のメッセージ(十九)―「御製」をめぐる問題(3)

 

『古今和歌集』は「二条后(藤原高子)」を評価する

前項で述べたように、我が国初の「勅撰和歌集」である『古今和歌集』が、寛平8年(896)以降「皇太后」を停廃されていた「藤原高子」の詠歌について、その詞書を「御製」と同一形式で収載したことの意味は大きい。それは、『古今和歌集』撰者、とりわけ紀貫之の「二条后藤原高子」への絶対的評価であったに違いない。この評価は、「巻一」「春上」の当該歌の詞書の形式にも明らかであるが、以下に掲げる5首の詠歌とその詞書からも明らかである。

 

8、(巻一、春上)

二条后の、春宮の御息所ときこえける時、正月三日、御前に召して仰せご とある間に、日は照りながら雪のかしらに降りかかりけるを詠ませ給ひける

(二条后が、皇太子の御母御息所と申し上げた時、正月三日、その御前にお召しになられてお言葉を賜っていた間に、日が差し込みながらも雪が頭に降りかかったことをお詠ませになられた)

文屋康秀

春の日の光にあたる我なれどかしらの雪となるぞわびしき

(春の日の光に浴びている自分こそ春宮様のご愛顧を頂戴している者ではありますが、しかし、今雪が頭に降りかかっているように、この髪も白く老齢を迎えている のがつらく思われます)

 

293、294(巻五、秋下)

二条后の、春宮の御息所と申しける時に、御屏風に、龍田川にもみぢ流れたるかたを書けりけるを題にて、詠める

(二条后が、皇太子の御母御息所と申し上げた時に、御屏風に、龍田川に紅葉が流れているところを書いてあったのを題にして、詠んだ)

素性

もみぢ葉の流れてとまるみなとには紅(くれなゐ)ふかき波や立つらむ

(紅葉の葉が流れてとどまる水門では、紅の色深い波が立っていることであろう)

業平朝臣

ちはやぶる神代も聞かず龍田川からくれなゐに水くくるとは

(不思議なことが多かった神代でも聞いたことがありません、この龍田川を深い紅色に水をくくり染めにするなんて)

 

445、(巻十、物名)

二条后、春宮の御息所と申しける時に、めどに、削り花挿せりけるを、詠ませ給ひける

(二条后が、皇太子の御母御息所と申し上げた時に、めどに、木を削って造った花を何かに挿していたのを、お詠ませになられた)

文屋康秀

花の木にあらざらめども咲きにけりふりにし木の実なる時もがな

(実際に花が咲く木ではありませんが、まるで花が咲いてしまったように見えます、古ぼけた木ではあっても実が成る時があってほしいものよ)

 

871、(巻十七、雑上)

二条后の、まだ春宮の御息所と申しける時に、大原野に詣で給ひける日、詠める

(二条后が、まだ皇太子の御母御息所と申し上げた時に、大原野神社に参詣 なさった日に、詠んだ)

業平朝臣

大原や小塩の山も今日こそは神代のことも思ひ出づらめ

(大原野の小塩山も、今日の二条后様の大原野神社参詣については、神代に天皇様を支えて活躍なさった藤原氏のご先祖のことを、思い出していることでありましょう)

 

これらの5首については、いずれも、二条后高子が「春宮の御息所」時代であることで一致している。「御息所」とは、天皇、もしくは皇太子の皇子を生んだ后のことであって、高子の場合、その時代は、清和天皇の第一皇子貞明親王(後の陽成天皇)の皇太子時代ということになる。貞明親王の皇太子時代は、貞観11年(869)~貞観18年(876)のことであった。

つまり、この間、二条后高子は、当時を代表する歌人たちを招き、歌を詠ませていた、ということなのであり、わかりやすく言えば、歌壇なるものを主宰していたということなのである。

自らが歌を詠むだけではなく、自身の周辺に当時の専門的歌人たちを招くという行為は、まさに、9世紀後半のこの国の和歌史を支えることに他ならなかった。二条后高子を、『古今和歌集』の「古」の時代を支えた功労者であると、貫之は、ここに明確に評価するに至ったのではあるまいか。


 

2023.7.1 河地修

この稿続く
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